第32話:蝕まれる命と黒い影
ルナリアの街を出発する朝、エリアは自力で起き上がることすらできなかった。
呼吸は浅く、体温はまるで氷のように冷たい。魔王の力が、彼女の生命力を最後の一滴まで絞り取ろうとしているかのようだった。
「……おはようございます、リアンさん」
俺が部屋に入ると、ベッドに横たわったまま、エリアが弱々しい声で微笑んだ。その髪には、昨日買った青い花の髪飾りが、大切そうにつけられている。
「無理に喋るな。体調はどうだ」
「……少し、体が重いだけです。大丈夫、ですよ」
大丈夫なはずがない。
俺は痛む胸を抑えながら、彼女を優しく抱き起こし、手早く旅の支度を整えた。宿の女将は、衰弱しきったエリアを見て驚いていたが、余計な詮索はせず、温かいスープを入れた水筒を持たせてくれた。
「あんたら、訳ありなんだろうけど……無理はしなさんなよ。いつでも戻っておいで」
「……恩に着る」
親切な人々に感謝しつつ、俺たちは静かにルナリアの街を後にした。
再び、二人だけの旅が始まった。
南へ。ひたすらに南の海を目指す。
背中から伝わるエリアの鼓動は、以前よりもずっと遅く、弱くなっていた。まるで、壊れかけた時計の秒針のように、いつ止まってもおかしくないほどに。
俺の焦燥感は、頂点に達していた。急がなければ。一刻も早く、彼女を故郷へ。
「……リアンさん」
歩き始めて数時間後。背中で、エリアがぽつりと呟いた。
「……少し、暗くなってきましたね。もう、夜ですか?」
俺は、足を止めた。
時刻はまだ、正午を回ったばかり。太陽は高く昇り、周囲は眩しいほどの陽光に包まれている。
それなのに、彼女には、暗く見えているというのか。
「……いや、まだ昼だ。太陽が出ている」
「え……? そうなんですか? おかしいな……なんだか、ずっと霧がかかっているみたいで……リアンさんの背中も、ぼんやりとしか……」
俺の背筋に、冷たいものが走った。
視力の低下。
魔王の力による魂の浸食が、ついに肉体の五感までも奪い始めているのだ。
「……疲れているだけだ。少し眠れば、よくなる」
俺は、震える声をごまかすように、そう言った。
「……はい。そうですね……」
エリアは、小さく頷き、俺の背中に顔をうずめた。
残酷な宣告だった。
このままでは、彼女は、故郷の海を見ることもできなくなる。
目が見えなくなり、音も聞こえなくなり、何も感じられない闇の中で、たった一人で死んでいくことになる。
そんな残酷な最期を、俺は絶対に認めない。
俺は歯を食いしばり、痛む足に鞭打って、歩く速度を上げた。
ただ前だけを見て、ひたすらに。
だが、運命は、どこまでも俺たちに残酷だった。
その日の夕刻。
峠を越え、広大な平原へと続く道を下っていた時のことだ。
不意に、背後――俺たちが通り過ぎてきた、ルナリアの街がある方角から、ゾッとするような冷気が吹き抜けた。
振り返ると、遠くの空が、不自然な黒い雲に覆われているのが見えた。
普通の雨雲ではない。まるで、空がインクをこぼしたかのように、赤黒く染まっている。
「……なんだ、あれは」
その雲の下にあるのは、ルナリアの街だ。
俺の聖なる力が、激しく警鐘を鳴らしていた。
ゼノンではない。ギルヴァレスでもない。
あれは、もっと……もっと、根源的な『悪』の気配。
世界そのものを凍てつかせるような、圧倒的な死の気配。
俺は、直感した。
何かが、来ている。
俺たちの足跡を辿って、確実に、そして圧倒的な力を持って。
ルナリアの街の空に浮かぶ黒い雲の中心から、一筋の黒い雷が、音もなく街へと落ちるのが見えた。
悲鳴は聞こえない。距離が遠すぎるからだ。
だが、俺には分かった。
あの優しかった街が、今、無慈悲に蹂躙されていることが。俺たちを匿ったという、ただそれだけの理由で。
「……くそっ……!」
俺は、自分の無力さを呪いながら、背を向けた。
今は、戻るわけにはいかない。
俺が戻れば、エリアは確実に死ぬ。それに、今の俺が戻ったところで、あの得体の知れない強大な気配に、勝てる保証などどこにもない。
逃げるしかなかった。
背中の少女の命を守るために。
俺は、背後に迫る漆黒の影の恐怖を振り払いながら、再び南へと向かって走り出した。
その時、俺のポケットの中で、カサンドラが残してくれた羊皮紙が、かすかに光を放ったような気がしたが、俺がそれに気づく余裕は、もはや残されていなかった。




