第31話:湖畔の街ルナリア
俺たちの旅は、新たな局面を迎えていた。
直接的な追手はいなくなったが、代わりに、エリアの命の灯火が、日増しに弱々しくなっていくという、見えざる敵との戦いが始まっていた。
彼女の最後の願い――故郷の海へ。
その目的地は、今いる険しい山脈を越え、さらに広大な平原を横断した、遥か南の果てにあった。
今のエリアの体で、果たしてそこまで辿り着けるのか。俺の心には、常に焦りと不安が渦巻いていた。
山脈を越える道中で、俺たちは、山間の盆地にひっそりと広がる、美しい湖の畔に辿り着いた。
湖は、まるで巨大なサファイアのように青く澄み渡り、その周囲には、小さな街が寄り添うようにして存在していた。
『湖畔の街 ルナリア』。
地図によれば、ここは豊かな水と温泉に恵まれた、風光明媚な保養地として知られているらしい。
「……きれい……」
俺の背中で、エリアが感嘆の声を漏らした。
街は、穏やかで平和な空気に満ちていた。王都の喧騒も、ドワーフ・フォートの荒々しさもない。ただ、ゆったりとした時間が流れている。
俺は、少しだけ迷った後、決断した。
「……少し、ここで休んでいくか」
「え……? でも……」
「このまま無理に旅を続ければ、あんたの体が持たない。それに、ここなら、王国の目も届きにくいだろう」
何よりも、俺は、エリアに少しでも穏やかな時間を与えてやりたかった。
彼女の短い人生は、病と、魔王という運命に、あまりにも翻弄されすぎていた。
最後の旅路だからこそ、ほんの少しでも、幸せな記憶を、その胸に刻んでほしかったのだ。
俺たちは、身分を隠し、ただの旅人としてルナリアの街に入った。
幸い、街の人々は、よそ者である俺たちを、温かく迎え入れてくれた。
俺は、なけなしの金で、湖が見える小さな宿屋に部屋を借りた。
その日から、俺たちの、束の間の休息が始まった。
朝は、湖から吹く涼しい風で目を覚ます。
昼間は、エリアを背負って、街を散策した。
色とりどりの花が咲き乱れる公園。水鳥たちがのんびりと羽を休める湖畔。湯気の立ち上る温泉街。
エリアは、そのすべてに、子供のようにはしゃいだ。
「リアンさん、見てください! あひるさんが、たくさん!」
「……あれは白鳥だ」
「わ! あの、もくもくしてるのは何ですか?」
「温泉の湯気だ。病に効くらしいぞ」
俺は、エリアを温泉に入れてやることにした。
もちろん、混浴ではない。宿の女将に事情を話し、追加料金を払って、家族風呂を貸し切ったのだ。
「……本当に、いいんですか?」
「いいから、入ってこい。体の芯から温まれば、少しは楽になるだろう」
俺が風呂の外で待っていると、しばらくして、中からエリアの、くすぐったそうな笑い声が聞こえてきた。
その声を聞いているだけで、俺のささくれだった心が、不思議と癒されていくのを感じた。
風呂から上がったエリアの頬は、ほんのりと桜色に染まっていた。
その夜、彼女は、何日かぶりに、深く穏やかな眠りについた。
翌日、俺たちは、街の市場へ出かけた。
エリアは、そこで売られていた、綺麗なガラス細工の髪飾りに、目を奪われていた。青い湖の色を映したような、小さな花の髪飾りだ。
「……きれい……」
その横顔を見て、俺は、何も言わずに、その髪飾りを買った。
「え……! い、いいです、リアンさん! こんな、高いもの……!」
「黙って受け取れ」
俺は、エリアの薄い金色の髪に、その飾りをそっと挿してやった。
青い花は、彼女の髪の色によく映えていた。
「…………」
エリアは、何も言わずに、ただ、潤んだ瞳で俺を見上げている。
そして、今までで一番、嬉しそうな笑顔で、言った。
「……ありがとう、ございます」
その笑顔を守るためなら、俺は、どんな代償でも払える。
心から、そう思った。
俺たちは、まるで、本当の兄妹か、あるいは、恋人同士のように、穏やかで、ありふれた時間を過ごした。
世界のことも、追手のことも、エリアの余命のことも。
すべてを忘れ、ただ、目の前にある幸福だけを、分かち合った。
だが、現実は、決して俺たちを解放してはくれなかった。
ルナリアに来て、五日が過ぎた頃。
エリアの体は、再び、限界を訴え始めていた。
咳は止まらず、起き上がれない日が増えていく。
温泉の効能も、もはや、気休めにしかならなかった。
束の間の平穏は、終わりを告げようとしていた。
俺たちは、再び、旅立たなければならない。
彼女の命の灯火が、完全に消えてしまう前に。
約束の場所、故郷の海へ。
俺たちの、最後の旅路が、再開されようとしていた。




