第98話 増えていく花と、覚えている季節
朝、空は薄く霞んでいた。
光はやわらかく、庭全体を包むように落ちている。
縁側へ出る。
まず木を見る。
昨日、一輪だけだった花。
今日は二輪になっていた。
その隣のつぼみも、少しふくらんでいる。
「増えたな」
みーちゃんが言う。
「うん」
自然に笑ってしまう。
昨日見た花を、今日も見たくなる。
そんなことは久しぶりだった。
◇ ◇ ◇
庭へ降りる。
草の間をゆっくり歩く。
土は乾いている。
冬の頃は雪に隠れていた場所。
雪玉を置いた場所も、もう分からない。
でも覚えている。
ここだった。
この辺りだった。
しゃがむ。
指で草を撫でる。
柔らかい。
春の草だ。
「覚えておるか」
みーちゃんが言う。
「うん」
雪玉。
足跡。
雨。
溶けていく形。
全部消えた。
でも、ちゃんと覚えている。
春は冬を追い出すわけじゃない。
その上に重なっていく。
そんな気がした。
◇ ◇ ◇
台所へ戻る。
窓は開いている。
風が通る。
湯を沸かす。
火の音は静かだ。
味噌桶の蓋を開ける。
変わらない匂い。
それだけで落ち着く。
湯飲みを並べる。
四つ。
当たり前になった数。
◇ ◇ ◇
坂の下で戸の音。
足音が二つ。
佐伯さんとゆうた。
いつもの朝。
縁側の前で止まる。
「おはようございます」
「おはよう」
ゆうたは返事より先に木を見る。
そしてすぐに気づく。
「あ」
昨日と同じ声。
でも少し弾んでいる。
「増えた」
「増えたね」
そのまま返す。
ゆうたが嬉しそうに木を見上げる。
昨日より長い時間。
昨日より近い距離。
花は人を立ち止まらせる。
◇ ◇ ◇
縁側へ座る。
三人。
空いた一席。
春の光。
湯気。
いつもの並び。
佐伯さんが花を見る。
「少しずつ増えるのがいいですね」
「うん」
一気に咲かない。
だから毎日見たくなる。
ゆうたが聞く。
「明日も増える?」
「たぶん」
そう答える。
するとゆうたは満足そうにうなずく。
もう明日の話をしている。
冬の頃より、ずっと先を見ている。
◇ ◇ ◇
風が吹く。
花が揺れる。
若葉も揺れる。
草も揺れる。
春は忙しい。
全部が動いている。
でも、不思議と慌ただしくない。
みーちゃんが言う。
「冬もよかったのう」
その言葉に少し考える。
「うん」
冬は静かだった。
雪を見ていた。
炬燵があった。
縁側は冷たかった。
でも、よかった。
春が好きだからといって、冬が嫌いになるわけじゃない。
ちゃんと続いている。
全部。
◇ ◇ ◇
昼が近づく。
ツネさんは今日は来ない。
でも、空いた座布団はそのまま。
誰も片づけない。
そこにあるのが自然だから。
ゆうたが空いた席を見る。
それから花を見る。
そして言う。
「また増える」
花のことなのか。
人のことなのか。
分からない。
でも、どちらでもいい気がした。
「そうだね」
静かに答える。
◇ ◇ ◇
花は二輪。
まだ少ない。
でも、去年の冬にはなかった景色だ。
季節は変わる。
人も増える。
でも、この場所は変わらない。
縁側に座って。
お茶を飲んで。
風を感じる。
それだけでいい。
春の庭には、少しずつ花が増えていた。
そして、この場所にも。
目には見えない何かが、少しずつ増えている気がした。




