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第96話 花のつぼみと、少し先の話

朝、空はよく晴れていた。  風は穏やかで、光が庭の隅まで届いている。


 縁側に座る。


 若葉は昨日より増えていた。  柔らかな緑が枝先を包んでいる。


 草も広がっている。


 春は目を離すと進んでしまう。


 「忙しいのう」  みーちゃんが言う。


 「春だから」


 そう返す。


 タマは縁側の端で眠っている。  時々しっぽだけが動く。


 台所へ戻る。


 窓は開いている。


 風が通る。


 湯を沸かす。


 火の音が軽い。


 冬のころより、ずっと軽い。


 味噌桶の蓋を開ける。


 変わらない匂い。


 それが今日もここにある。


 縁側へ戻る。


 庭の木を見上げる。


 若葉の間に、小さな丸いものが見えた。


 つぼみ。


 まだ固い。


 でも、確かにそこにある。


 「もう出たんだ」


 小さく言う。


 みーちゃんも見上げる。


 「早いな」


 風が吹く。


 つぼみは小さく揺れる。


 坂の下で戸の音。


 足音が二つ。


 佐伯さんと、ゆうた。


 いつもの足音。


 縁側の前で止まる。


 「おはようございます」  佐伯さん。


 「おはよう」


 ゆうたも手を上げる。


 「おはよう」


 もう自然だ。


 縁側へ上がる。


 座布団へ座る。


 タマが少しだけ場所を譲る。


 ゆうたが笑う。


 それも自然になった。


 湯を運ぶ。


 三つ。


 そして四つ目。


 空いた席の前にも置く。


 春の光が湯気を照らす。


 「見て」


 そう言って庭の木を指す。


 ゆうたが見る。


 少し目を細める。


 「葉っぱ?」


 「その横」


 しばらく探して、


 「あ」


 小さな声。


 つぼみを見つけた。


 「丸い」


 「つぼみだね」


 そう返す。


 ゆうたが見つめる。


 長い時間。


 それから聞く。


 「咲く?」


 「咲くと思う」


 その答えに、少し嬉しそうな顔。


 佐伯さんも木を見上げる。


 「楽しみですね」


 「うん」


 まだ花はない。


 でも、もう待てる。


 そこにあると知っているから。


 ゆうたが湯飲みを持ちながら言う。


 「いつ?」


 「もう少しかな」


 「明日?」


 少し笑う。


 「明日は難しいかも」


 ゆうたも笑う。


 「じゃあ、あさって」


 「どうかな」


 みーちゃんが言う。


 「待つのも春じゃ」


 その言葉に、みんな少し笑う。


 風が吹く。


 若葉が揺れる。


 つぼみも揺れる。


 まだ小さい。


 でも、ちゃんとそこにある。


 冬の頃は、雪が積もるかを見ていた。


 今は、花が咲くのを見ている。


 同じ庭なのに、見ているものが違う。


 佐伯さんがぽつりと言う。


 「少し先のことを話すようになりましたね」


 その言葉に、少し考える。


 確かにそうだった。


 雪の日は、今日の話をしていた。


 でも今は違う。


 花が咲く日を話している。


 少し先を待てるようになっている。


 「そうだね」


 静かに答える。


 春は、未来の話をする季節なのかもしれない。


 やがて二人が立ち上がる。


 「また来ます」  佐伯さん。


 「またね」


 ゆうたも木を見上げてから立ち上がる。


 つぼみを確認するように。


 それでいい。


 二人が坂を下りていく。


 足音が二つ。


 縁側に残るのは、春の風。


 そして、枝先の小さなつぼみ。


 まだ咲いていない。


 だからこそ、楽しみだった。


 春は、少し先の喜びを連れてくる季節だった。

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