第95話 若葉の影と、呼ばれる名前
昼前、空は薄く霞んでいた。
陽射しはやわらかく、庭に淡い影を落としている。
縁側に座る。
草はさらに増えていた。
小さな緑だったものが、少しずつ地面を覆い始めている。
風が吹く。
庭の端の木が揺れる。
枝先には、いつの間にか小さな若葉が出ていた。
「出てきたな」
みーちゃんが言う。
「うん」
春は忙しい。
昨日なかったものが、今日はある。
台所へ戻る。
窓は開いている。
風が通る。
湯を沸かす。
火の音は静かだ。
味噌桶の蓋を開ける。
変わらない匂い。
それが少し安心する。
縁側へ戻る。
坂の下で戸の音。
足音が二つ。
佐伯さんと、ゆうた。
もう「あの子」ではない。
名前を知っている。
それだけで少し違う。
縁側の前で止まる。
「おはようございます」
佐伯さん。
「おはよう」
ゆうたが小さく手を上げる。
「おはよう」
そう返す。
自然なやり取り。
昨日より少し近い。
縁側へ上がる。
座布団へ座る。
タマが少しだけ移動する。
ゆうたが笑う。
「どいてくれた」
「えらいね」
そう言うと、タマは目を閉じる。
褒められても気にしない顔。
湯を運ぶ。
三つ。
そして四つ目。
空いた席の前にも置く。
もう誰も不思議そうにしない。
そこにあるのが自然になっている。
風が吹く。
若葉が揺れる。
ゆうたが庭を見る。
「あれ」
指をさす。
若葉。
小さな緑。
昨日より増えている。
「葉っぱ」
ぽつりと言う。
「若葉だね」
そう返す。
ゆうたがしばらく見ている。
それから言う。
「雪なくなった」
「うん」
「草になった」
「うん」
少し考える。
それから若葉を見る。
「今度は葉っぱ」
その言葉に、少し笑う。
「そうだね」
春は順番にやって来る。
雪。
草。
若葉。
全部つながっている。
佐伯さんが空を見上げる。
「ちゃんと進んでるんですね」
「進んでるね」
去年の今ごろ。
私は一人だった。
縁側も静かだった。
もちろん、それも悪くなかった。
でも今は違う。
静かなまま、少しだけ賑やかだ。
みーちゃんが言う。
「増えたのう」
「うん」
名前も。
席も。
季節も。
少しずつ。
無理をせずに。
ゆうたが湯飲みを持ちながら言う。
「また増えるかな」
「増えると思う」
そう答える。
草も。
葉っぱも。
たぶん、この場所も。
風が吹く。
若葉の影が縁側に揺れる。
冬にはなかった影。
春だけの影。
その揺れを眺めながら、
湯を一口飲む。
温かい。
でも、冬の温かさとは少し違う。
やがて二人が立ち上がる。
「また来ます」
佐伯さん。
「またね」
ゆうたも小さく手を振る。
それに手を振り返す。
二人が坂を下りていく。
足音が二つ。
春の風に混ざって遠ざかる。
縁側には、若葉の影が揺れている。
季節は今日も進む。
静かに。
でも確かに。




