第94話 名前を呼ぶ声と、春の輪
昼前、空は高く晴れていた。
雲は遠く、陽射しが庭いっぱいに広がっている。
縁側に座る。
四つの座布団。
昨日のまま。
誰もいないのに、どこか落ち着く並びだった。
タマは二つ目の座布団で寝ている。
堂々としている。
「増長しとるな」
みーちゃんが言う。
「確かに」
少し笑う。
風が通る。
草が揺れる。
鳥の声が近い。
春の音が、少しずつ増えている。
台所へ戻る。
窓は開いている。
火を入れる。
湯を沸かす。
味噌桶の蓋を開ける。
変わらない匂い。
変わらないものがあるから、
変わるものも安心して見ていられる。
縁側へ戻る。
坂の下で戸の音。
足音が二つ。
佐伯さんと、あの子ども。
いつもの足音。
縁側の前で止まる。
「おはようございます」
佐伯さん。
「おはよう」
子どもも小さく会釈する。
最初のころはしなかった。
少しずつ変わっている。
「どうぞ」
言う前に、二人は縁側へ上がる。
もう迷わない。
子どもが座布団に座る。
タマが少しだけ場所を譲る。
そのやり取りも自然になった。
湯を運ぶ。
三つ。
そして、四つ目も置く。
空いた席の前。
佐伯さんが少し笑う。
「今日もあるんですね」
「あるね」
それだけ答える。
風が吹く。
空いた座布団の端が少し揺れる。
そのときだった。
坂の下から声がする。
「たえこさーん!」
ツネさんだ。
少し大きな声。
みんなが振り向く。
ツネさんが坂の途中から手を振っている。
そして、子どもを見つける。
「あら、おはよう」
子どもが少しだけ背筋を伸ばす。
ツネさんが笑う。
「そういえば、名前聞いてなかったわねぇ」
その言葉に、少し沈黙が落ちる。
確かに。
私も、佐伯さんも。
ずっと「あの子」のままだった。
子どもが少し困った顔をする。
足元を見る。
それから、小さく言う。
「ゆうた」
春の風に乗るような声。
「ゆうた君か」
ツネさんが笑う。
「いい名前ねぇ」
子ども――ゆうたが、少し照れた顔をする。
佐伯さんも笑う。
「やっと聞けましたね」
「そうだね」
私も少し笑う。
不思議だった。
名前を知らなくても、一緒に過ごせていた。
でも、名前を知ると、
輪郭が少しだけはっきりする。
「ゆうた」
呼んでみる。
ゆうたが顔を上げる。
「なに」
短い返事。
それだけなのに、少し嬉しい。
みーちゃんが言う。
「また増えたな」
「うん」
草が増える。
席が増える。
名前も増える。
春は、そういう季節なのかもしれない。
ツネさんは少し立ち話をして、また坂を下りていく。
ゆうたは湯飲みを持ちながら、庭を見る。
佐伯さんは風を感じながら空を見ている。
タマは眠そうだ。
みーちゃんは縁側の端。
いつもの位置。
私は、その真ん中にいる。
春の輪は大きくない。
でも、ちゃんと広がっている。
名前を呼ぶ声が増えた分だけ、
この場所は少しだけ賑やかになった。
それでも、静かなまま。
春の昼は、
今日もゆっくり流れていた。




