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第93話 もう一つの湯飲みと、戻ってきた人

昼前、空は明るかった。

 風は穏やかで、雲も薄い。

 庭の草は、昨日より少しだけ濃く見える。


 縁側には、今日も座布団が四つ並んでいる。


 タマは一番端を使っている。


 「そこ、座布団じゃないんだけど」


 そう言うと、尻尾だけが動く。


 みーちゃんが笑う。


 「もう自分の席じゃと思っとる」


 「かもしれないね」


 台所へ戻る。


 窓は開いている。

 風が通る。


 湯を沸かす。


 気づけば、今日も湯飲みを四つ出していた。


 もう迷わない。


 四つが自然になっている。


 縁側へ戻る。


 坂の下で戸の音。


 足音が二つ。


 佐伯さんと、あの子ども。


 いつもの足音。


 でも今日は、その少しあとに、もう一つ聞こえた。


 ゆっくりした足音。


 坂の途中で立ち止まる音。


 振り向く。


 ツネさんだった。


 小さな袋を提げている。


 「こんにちは」


 私が言う。


 「こんにちは」


 ツネさんが笑う。


 「ちょっと通りかかっただけなんだけどねぇ」


 そう言いながら、縁側の方を見る。


 四つの座布団。


 空いている一つ。


 そして、小さく笑った。


 「ちゃんと残してあるのね」


 私は少しだけ肩をすくめる。


 「片づけるの忘れてただけ」


 ツネさんは何も言わない。


 でも、その顔は信じていない。


 佐伯さんが笑う。


 子どもは空いている座布団を見ている。


 「座る?」


 私が聞く。


 ツネさんは少し考えてからうなずいた。


 「せっかくだから」


 四つ目の席へ座る。


 ぴたりと収まる。


 まるで最初からそこにあったみたいに。


 「埋まったな」


 みーちゃんが言う。


 「うん」


 湯を運ぶ。


 四つ。


 今日は全部使う。


 湯気が春の光に溶ける。


 ツネさんが庭を見る。


 「草が増えたねぇ」


 「増えました」


 子どもがすぐにうなずく。


 毎日見ているから分かる。


 「前は雪だったのに」


 ツネさんが言う。


 その言葉に、みんな少しだけ庭を見る。


 雪玉。


 足跡。


 白い朝。


 もうない。


 でも、ちゃんと覚えている。


 「なくなった」


 子どもが言う。


 「うん」


 「でも、ここ」


 縁側を指す。


 もう何度も聞いた言葉。


 それでも、少し嬉しい。


 「うん、ここ」


 そのまま返す。


 ツネさんが目を細める。


 「いい言葉ねぇ」


 風が吹く。


 草が揺れる。


 湯気が流れる。


 誰も急がない。


 誰も黙り込まない。


 ただ、そこにいる。


 春の昼は、そんなふうに過ぎていく。


 やがてツネさんが立ち上がる。


 「じゃあね」


 「また」


 そう返す。


 佐伯さんも立つ。


 「また来ます」


 子どもも小さくうなずく。


 三人の足音が坂を下りていく。


 縁側に残るのは、春の風。


 そして、四つの座布団。


 今日は全部使われた。


 でも、片づけない。


 また誰かが座るかもしれないから。


 春は、人を連れてくる。


 静かに。


 自然に。


 気づけばそこにいるように。

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