第91話 差し入れの匂いと、増えていく昼
昼すぎ、空はやわらかく霞んでいた。
陽射しは少し薄いが、寒くはない。
風は、春らしく穏やかだった。
縁側に座る。
板の温かさが、じんわり伝わる。
庭の草は、さらに広がっている。
緑が、もう点ではなく、面になり始めていた。
タマはいつもの場所で伸びている。
眠っているようで、耳だけが動く。
「春の昼じゃな」
みーちゃんが言う。
「うん」
冬のころとは、時間の流れが違う。
急がない。
止まりもしない。
台所で湯を沸かす。
窓は大きく開いている。
風が抜ける。
火は弱くていい。
味噌桶の蓋を開ける。
匂いは変わらない。
でも、その匂いの周りを、
春の空気が包んでいる。
今日は縁側で飲もうと思って、
湯飲みを三つ並べる。
そのとき、坂の下で戸の音。
足音が二つ。
佐伯さんと、あの子ども。
いつもの足取り。
でも今日は、それとは別に、
もう一つ音がした。
ゆっくりした足音。
縁側へ顔を向ける。
ツネさんだった。
手に、小さな包みを持っている。
「まあ、賑やかだこと」
笑いながら坂を上がってくる。
「こんにちは」
私が言う。
「こんにちは」
佐伯さんが少し驚いて会釈する。
子どもはツネさんを見て、
少しだけ背筋を伸ばす。
「お団子作ったからねぇ。持ってきたの」
包みを掲げる。
ふわりと、甘い匂い。
「ありがとう」
そう言うと、ツネさんが目を細める。
「ちょうどよかったわ。みんなで食べましょ」
みーちゃんが、少し離れたところで鼻をひくつかせる。
「甘いのう」
「好きなくせに」
心の中で返す。
縁側に座布団を増やす。
一つ。
四つ並ぶ。
少しだけ新鮮な並び。
ツネさんが自然に座る。
佐伯さんが少し詰める。
子どもも、なんとなく間を合わせる。
誰にも言われないのに、
ちゃんと並ぶ。
湯を四つ用意する。
団子を皿に並べる。
子どもの目が、少しだけ丸くなる。
「食べていいよ」
そう言うと、うなずく。
そっと一つ取る。
少しかじる。
「甘い」
ぽつりと言う。
ツネさんが嬉しそうに笑う。
「でしょう」
佐伯さんも一つ取る。
「おいしいです」
「春はね、こういうのが食べたくなるのよ」
ツネさんの声は、
春の陽みたいにやわらかい。
風が通る。
団子の匂い。
お茶の湯気。
土の匂い。
全部が混ざる。
子どもが、もう一つ団子を見つめる。
少し迷う。
それから取る。
ツネさんが何も言わず、
ただ笑う。
その感じが、いい。
みーちゃんが言う。
「増えたな」
「うん」
人数も。
匂いも。
この場所の昼も。
冬にはなかった広がり。
でも、不思議と騒がしくない。
ただ、少し豊かだ。
ツネさんがぽつりと言う。
「おばあちゃんも、こういうの好きだったねぇ」
その言葉に、少しだけ胸がやわらぐ。
「うん」
短く返す。
きっと、この景色を見たら、
笑っていたと思う。
やがて、団子がなくなる。
お茶も飲み終わる。
ツネさんが立ち上がる。
「また寄るわね」
「うん」
佐伯さんも立つ。
「また来ます」
子どもも、小さくうなずく。
それでいい。
三つの足音が、坂を下りていく。
縁側に残るのは、
甘い匂いと、春の風。
座布団は四つのまま。
しばらく片づけずにおく。
増えていく昼は、
静かにこの場所へ根づいていた。




