第85話 開けた窓と、流れ込む春の匂い
朝、空は高く晴れていた。
雲は薄く、光がまっすぐ落ちている。
冷えはまだ残っているが、息は白くならない。
縁側に出る。
庭の土は、昨日より乾いていた。
小さな草の色も、少し濃く見える。
風が通る。
冬の風より軽い。
湿り気と、土の匂いが混ざっている。
「変わったな」
みーちゃんが言う。
「うん」
目に見えるものだけじゃない。
空気そのものが変わり始めている。
台所へ戻る。
今日は、窓を少し開ける。
冷たすぎない風が入る。
火の音と混ざる。
味噌桶の蓋を開ける。
匂いは変わらない。
でも、その匂いの周りに、
春の空気が流れ込んでいる。
「窓、開けるんだね」
自分で少し不思議に思う。
冬の間は、閉じていた。
火の温度を逃がさないように。
でも今日は、閉めなくてもいい気がした。
縁側へ戻る。
庭の隅で、小さな鳥が跳ねている。
タマは寝そべったまま見ている。
追わない。
それも、春に近い動きだった。
坂の下で戸の音。
足音が二つ。
佐伯さんと、あの子ども。
今日は、子どもの歩幅が少し大きい。
縁側の前で止まる。
「おはようございます」
佐伯さん。
「おはよう」
子どもが庭を見る。
草の場所を、すぐ見つける。
しゃがむ。
今日は触らない。
ただ見る。
「増えてる」
小さく言う。
「増えてるね」
そのまま返す。
佐伯さんが窓を見る。
「開いてる」
少し意外そうな声。
「今日は、平気そうだから」
そう答える。
風が、部屋を通り抜ける。
冬の空気より軽い。
子どもが鼻を少し動かす。
「匂いする」
「土の?」
うなずく。
それから、少し考えて、
「春」
ぽつりと言う。
少し驚く。
でも、確かにそうだった。
「春の匂いだね」
そう返す。
みーちゃんが目を細める。
「ちゃんと分かるようになったな」
「うん」
季節の変わり目は、
音より先に、匂いで来る。
「入っていいですか」
佐伯さんが言う。
「どうぞ」
戸は開いている。
靴をそろえる音。
居間へ。
炬燵。
湯気。
いつもの場所。
今日は、三人。
でも、窓が開いている。
外の風が、少しだけ中へ入る。
子どもが炬燵に入りながら言う。
「前より、あつくない」
「外があったかいから」
それだけ返す。
湯を三つ用意する。
湯気が重なる。
でも今日は、
その向こうに、外の光もある。
冬の内側と、
春の外側が、
少しずつ混ざり始めていた。
やがて二人が立ち上がる。
「また来ます」
佐伯さん。
子どもは窓のほうを見る。
風が、静かに入ってくる。
それでいい。
二人が坂を下りていく。
足音が二つ。
縁側に戻る。
開けた窓から、
春の匂いがゆっくり流れ込む。
季節は、
戸を叩かずに入ってくる。
そして気づけば、
いつもの場所の空気を、
少しずつ変えていた。




