第86話 薄い上着と、春へ向かう体温
朝、空はやわらかく霞んでいた。
雲は薄く、光がぼんやりと庭に落ちている。
冷えは残っているが、刺さらない。
縁側に出る。
庭の草は、昨日より少し広がっていた。
緑が、土の色に混ざり始めている。
風が通る。
冷たい。
でも、冬の風ではない。
「軽くなったな」
みーちゃんが言う。
「うん」
自分の袖を見る。
冬の厚い上着ではない。
少し薄いものを選んでいた。
無意識だった。
台所へ戻る。
窓は今日も少し開けてある。
火の音と、外の風が混ざる。
味噌桶の蓋を開ける。
匂いは変わらない。
でも、部屋の空気は変わっている。
縁側へ戻る。
タマが日向に伸びている。
丸くならず、体を長くしている。
「伸びてるね」
そう言うと、みーちゃんが小さく笑う。
坂の下で戸の音。
足音が二つ。
佐伯さんと、あの子ども。
今日は、佐伯さんも少し薄い上着だった。
縁側の前で止まる。
「おはようございます」
佐伯さん。
「おはよう」
子どもが庭を見る。
草の場所へ行く。
しゃがむ。
今日は迷わず触る。
「増えてる」
少し嬉しそうな声。
「増えてるね」
そのまま返す。
佐伯さんが袖を見ながら言う。
「今日は、ちょっと軽くしました」
「分かる」
そう返す。
冬の重さを、少しずつ脱いでいく。
それは服だけじゃない。
風が通る。
窓から部屋へ入り、
縁側を抜けていく。
子どもがタマを撫でる。
タマは目を細めたまま動かない。
「ねむそう」
ぽつりと言う。
「春だから」
そう答えると、少し考える顔。
それから、小さくうなずく。
みーちゃんが言う。
「お前さんも緩んできたな」
「そうかも」
否定しない。
冬の頃より、
肩に力が入っていない。
「入っていいですか」
佐伯さんが言う。
「どうぞ」
戸は開いている。
靴をそろえる音。
居間へ。
炬燵。
湯気。
いつもの場所。
今日は、三人。
でも、炬燵の熱が少し強い。
外が暖かくなったから。
子どもが炬燵に入りながら言う。
「前より、あつい」
「もう春が近いから」
そのまま返す。
湯を三つ用意する。
湯気が重なる。
でも今日は、
窓から入る風の方が印象に残る。
冬の温度が、
少しずつ役目を終え始めている。
佐伯さんが窓の外を見る。
「ちゃんと季節って動くんですね」
「動くね」
止まっているように見えても、
少しずつ進んでいる。
それで変わる。
やがて二人が立ち上がる。
「また来ます」
佐伯さん。
子どもは、庭の草をもう一度見る。
緑は小さい。
でも、昨日より増えている。
それでいい。
二人が坂を下りていく。
足音が二つ。
縁側に戻る。
薄い風が、袖を揺らす。
冬の体温は、
少しずつ春へ近づいていた。




