第72話 一人で歩く坂と、残っている並び
朝、空は高く澄んでいた。
雲は少なく、光がはっきりしている。
冷えはあるが、気持ちいい。
台所で湯を沸かす。
火の音が、いつも通りに広がる。
味噌桶の蓋を開けると、匂いが落ち着いている。
縁側に出る。
坂の上を見る。
昨日の足音が、少し残っている気がする。
「行くか」
みーちゃんが言う。
「うん」
靴を履く。
戸を閉める。
今日は、一人。
坂を上がる。
足音が一つ。
昨日と同じ道。
同じ傾き。
でも、体が少しだけ覚えている。
息の上がり方。
足の置き方。
途中で、誰とも会わない。
静かだ。
でも、空いてはいない。
昨日の並びが、どこかに残っている。
坂の上に着く。
景色が広がる。
村の屋根。
細い道。
遠くの木。
「広い」
小さく言う。
声は、すぐに消える。
しばらく立つ。
一人でいるのに、
一人だけではない感じがする。
「残っておるな」
みーちゃんが言う。
「うん」
並んだ時間は、消えない。
場所に、少しだけ残る。
風が通る。
冷たいが、やわらかい。
下りる。
坂を下る足音。
今度は、ゆっくり。
家が見える。
縁側の戸は閉じている。
自分で開ける。
中の空気が迎える。
炬燵。
静けさ。
いつもの場所。
タマが布団の中で動く。
「戻った」
そう言う。
それでいい。
外に出ても、
中に戻る場所がある。
その感覚が、
昨日よりはっきりしている。
一人で歩くと、
並んだ時間が、
ちゃんと自分の中に入る。
冬の坂は静かだが、
その静けさの中に、
確かな足音が残っていた。




