第67話 戻る足音と、置いていかれる温度
朝、空は薄く晴れていた。
雲はあるが、光がやわらかく差している。
冷えは続いているが、重くはない。
台所で湯を沸かす。
火の音が、今日も変わらず広がる。
味噌桶の蓋を開けると、匂いが落ち着いている。
縁側の戸を、少しだけ開けておく。
冷たい空気が細く入る。
でも、閉めない。
「また開けておるな」
みーちゃんが言う。
「うん」
理由は言わない。
でも、分かっている。
坂の下で戸の音。
しばらくして、足音が一つ。
佐伯さんだ。
今日は一人。
縁側の前まで来て、軽く会釈する。
「おはようございます」
「おはよう」
少し間があって、佐伯さんが言う。
「入ってもいいですか」
戸は開いている。
でも、ちゃんと聞く。
「どうぞ」
靴をそろえて入る。
動きが自然だ。
居間へ入ると、炬燵の布団が静かに膨らむ。
タマが中で動く。
佐伯さんが座る。
昨日より迷いがない。
「今日はあの子は?」
「学校だと思います」
短い会話。
それで十分。
湯を用意する。
二つ。
湯気が、ゆっくり立つ。
「ここ、落ち着きますね」
「そうですね」
同じ言葉。
でも、昨日より深い。
タマが顔を出し、
佐伯さんの方を見る。
「慣れましたね」
「お互いに」
少し笑う。
みーちゃんは縁側の方にいる。
いつも通り。
沈黙が落ちる。
でも、空いてはいない。
時間が、ちゃんとある。
佐伯さんがぽつりと言う。
「戻ってきちゃいました」
「いいと思います」
それだけ返す。
無理に理由を聞かない。
それでいい。
風が通る。
戸が少し揺れる。
外と中の境目が、やわらかい。
しばらくして、佐伯さんが立ち上がる。
「また来ます」
「どうぞ」
戸を出て、坂を下りていく。
足音が、一つ。
でも、軽い。
縁側に残る空気。
少しだけ、温度が残っている。
みーちゃんが言う。
「戻る場所になったな」
「うん」
戻ることは、
特別なことではない。
ただ、
自然に足が向くこと。
この家は、
少しずつ、
そういう場所になっていた。




