最終話 春の満開と、これからも続く日々
朝、空は青く澄んでいた。
雲はほとんどない。
光が庭いっぱいに降りている。
縁側へ出る。
思わず足が止まった。
木の花が、一気に増えていた。
昨日まで枝のあちこちに散っていた白が、今日はまとまって見える。
咲いている。
たくさん。
若葉の緑と花の白が重なっている。
「満開じゃな」
みーちゃんが言う。
「うん」
しばらく見上げる。
風が吹く。
枝が揺れる。
花も揺れる。
春の木になっていた。
◇ ◇ ◇
庭へ降りる。
草も増えている。
花びらも落ちている。
白い小さな欠片。
緑の上に散らばっている。
しゃがむ。
一枚拾う。
薄い。
軽い。
冬の雪とは全然違う。
でも、どこか似ている。
どちらも季節の形だった。
「覚えておるか」
みーちゃんが言う。
「雪玉?」
「うむ」
少し笑う。
あった。
確かにあった。
ゆうたが作った小さな雪玉。
縁側の端。
今はもう跡もない。
でも、忘れていない。
◇ ◇ ◇
台所へ戻る。
窓は大きく開いている。
風が通る。
湯を沸かす。
火の音。
味噌桶の匂い。
変わらないもの。
それが今日もここにある。
味噌汁を作る。
いつもの手順。
いつもの鍋。
湯気が立ち上る。
その匂いが部屋に広がる。
ふと、この家へ来たばかりの頃を思い出した。
一人だった。
静かだった。
悪くはなかった。
でも今とは違う。
◇ ◇ ◇
坂の下で戸の音。
足音が二つ。
佐伯さんとゆうた。
いつもの朝。
縁側の前で止まる。
「おはようございます」
「おはよう」
ゆうたはすぐに木を見る。
そして目を丸くする。
「あ!」
思わず漏れた声。
少し笑ってしまう。
「咲いたね」
ゆうたが何度もうなずく。
「いっぱい」
「いっぱいだね」
佐伯さんも見上げる。
「きれいですね」
その声は穏やかだった。
◇ ◇ ◇
縁側へ座る。
三人。
そして空いた一席。
春の光。
満開の花。
風。
湯気。
全部が穏やかだった。
そのとき。
坂の下から声がする。
「咲いたわねぇ!」
ツネさんだった。
みんなで振り向く。
ツネさんが笑いながら坂を上がってくる。
手には何も持っていない。
今日は花を見るためだけに来たらしい。
「満開じゃないの」
嬉しそうに言う。
四つ目の座布団へ座る。
ぴったり収まる。
もう誰も驚かない。
そこがツネさんの席になっていた。
◇ ◇ ◇
お茶を飲む。
花を見る。
風を感じる。
誰も急がない。
誰も無理に話さない。
ただ、一緒にいる。
それだけで十分だった。
ゆうたが花を見ながら言う。
「きれい」
小さな声。
でも、ちゃんと聞こえた。
「うん」
私も答える。
「きれいだね」
◇ ◇ ◇
風が吹く。
花びらが舞う。
ゆっくり。
静かに。
縁側の前へ落ちる。
庭へ落ちる。
草の上へ落ちる。
きれいだった。
冬。
雪から始まった。
静かな祠。
みーちゃん。
タマ。
縁側。
少しずつ増えていった。
佐伯さん。
ゆうた。
ツネさん。
草。
若葉。
花。
全部が自然だった。
無理に増えたものは一つもない。
だから心地いい。
◇ ◇ ◇
季節は巡る。
この花も、いつか散る。
夏が来る。
秋が来る。
冬もまた来る。
だけど、それでいい。
ごはんを作る。
お茶を飲む。
縁側で風を感じる。
誰かが来て、誰かが帰る。
そんな毎日が続いていく。
きっとこれからも。
隣の祠には神様がいて。
庭には猫がいて。
この家には、私がいる。
それで十分だ。
◇ ◇ ◇
春の風が吹く。
花びらが一枚、空へ舞った。
私は湯飲みを両手で包む。
温かい。
その温かさを感じながら、静かに笑う。
今日も、いい日だ。
了




