24 魔法使いと美しき花
「じゃあ、フィオル・ルーナ?」
「違うわよ」
「それじゃあ、フィオル・エン・ティーア」
「それもちょっと違うわね」
名前あてのゲームは続いていた。
「意地悪だね、フィオナ」
ヴェイドはそっとため息をつく。こんなことなら、さっさと彼女から真名を聞き出しておくんだったと、今さらながらに思っていた。
でも、まさかこんな状況になるとは思わないではないか。半精霊の彼女にとって、真名を護ることは自由を守ることと同じ意味だ。決して名前を口にしなかった彼女は、母親アンディーナの教えをきちんと守る良い子だった。
でもいちばん、フィオル・エン・ティーアが有力だったんだけどな。
すでに案を出し尽くした彼は、やや途方に暮れる。そんな彼を見たフィオナは、精霊が笑うときのようなあの顔で口の端をつりあげた。
「あら、だってあなたのフィオナはわたしじゃないもの。悪い魔法使いに、そう簡単に彼女を返してはあげないわよ」
「やっぱりぼくのこと知ってるんじゃないか」
「話しているうちに思い出してきただけよ」
すました顔で言った彼女は、ちらと薄目をあけて魔術師を見やる。
「あなたってとっても酷い人ね。フィオナが自分と同じだと思ってるわ」
「どういうことかな」
「身寄りのない彼女を、あなたは憐れんだわけね。かつてあなたがそうだったように。だから彼女を引き取ろうと思ったんでしょう?」
「そういうわけじゃない」
だが間違いでもなかった。
彼女が一緒に暮らしたがっていることは分かっていた。だがその気持ちを押し殺し、母親の形見とも言える魔石を手渡して『会いにくる口実だ』と言った少女に、ヴェイドは確かに心が動かされたのだった。
「だって健気に『会いにくる』だなんて言われては、突き放せないと思わないかい?」
「彼女がどうして会いたいと思ったのか、あなたは分かってるの?」
「この話は終わりだ、フィオナ。ぼくはきみとそんな話をしに来たんじゃない」
あまり都合の良い話題じゃない。
こんな話はさっさと終わらせるべきだとヴェイドは思った。
だがフィオナは、いつものように引き下がってはくれなかった。なぜなら、彼女は彼女ではないのだから。
「あのこが断れないのをいいことに、あなたは好き勝手にしているわね。あのこはあなたが好きなのに、かわいそうなフィオナ」
「きっと、弟子が師を慕うような気持ちだよ。それは親愛というんだ」
少し違うような気もしたが、ヴェイドはそう言わなければならなかった。名前のつけられない感情は、これからを生きる自分には必要のないもの。
「じゃあどうして彼女は、あなたに何度も好きだと言ったの?」
「やけに食い下がるね。本当はきみ、フィオナなんじゃないのか?」
「どっちもフィオナよ」
「ああそう」
これこそまさに、水掛け論だ。ヴェイドは苛々しながら、目の前の少女の髪を撫でまわした。それがまるで精神安定剤だとでも言わんばかりの動作に、彼はまた苛ついていく。
「ちょっとやめてよね。髪が乱れちゃうじゃない」
「ぼくは、彼女の気持ちに応えられない」
眉間にしわを寄せたまま、ヴェイドは言う。なぜだと問う彼女に、ヴェイドの視線は宙をさまよう。
「彼女はこれから、幸せになるべきだ」
ともにいると、無垢に慕ってくる彼女にあまえてしまう。
もう二度と、人の温かみに触れはしないと誓ったのに、彼女は何のためらいも無く彼の心に入り込み、閉ざした心を溶かしてしまう。だがそれでは、彼の心はまた深い傷を負うだろう。
――わたしの幸せはあなたの隣よ。
そんな馬鹿な話はあるものか。彼女にはもっと、彼女を大切に思うような人が現れるはずだ。なんならアレイスト王子でもいい。彼もまたあの少女の笑顔を欲しているのだから。
「じゃあ幸せにしたいのに、どうして辛い顔をしているの、魔術師さん」
つきりと胸の奥が痛んでいる。
つと見おろすと、フィオナと同じ顔の、見慣れない瞳の色が彼を見返している。
嘘だ、とヴェイドは心のなかでつぶやいた。
あの第一王子に彼女を譲ろうだなんて嘘だ。そう思えるぐらいなら、ヴェイドはさっさとフィオナの召喚に乗り切っていただろう。だがそうしなかったのは、誰にも、この少女を渡したくなかったからだ。
「あなたはここに、何をしに来たの」
彼女の声で、精霊が問う。答えはもう、分かっていた。
この娘の幸せは、彼の隣に。
そして彼の幸せもまた。
いまなら嘘だと自分に信じ込ませられる。だが心の鍵はすでに解かれてしまっているのだと、そう言った王女の言葉が脳裏をよぎる。
彼女に会いたいと思うのだ。あの少女がどこにも逃げないように、しっかりとこの腕に抱きとめておきたい。この気持ちの名前は。
そして諦観したように、ヴェイドは水の精霊の手をそっとつかんだ。
精霊に身を落とした彼女の手は、思いのほかひんやりと冷たかった。なのに見た目だけは、彼女は愛おしい少女の姿だ。ここにはあの少女はどこにも居ないというのに。
自分が探しているのはこの精霊と、温かい陽の下に咲くような、あの――…
うなだれて跪く魔術師の額に、精霊の少女はそっと自分のそれを合わせる。
「名前の答えを聞こうかしら」
息もかかりそうなほど近くで、魔女のように、魅入られてしまいそうな蒼の瞳がこちらを見ている。深く深くまっすぐに、心のなかを見透かすように。
ヴェイドはそっと目を閉じた。
――もし置いていきそうになったら、迎えにきて。わたしはいつでもあなたの傍にいるわ。
フィオナ。
ぼくに幸せを運ぶ、小さな精霊。
この事実を知ったとき、彼女は怒るだろうかとヴェイドは思う。目を吊り上げて怒る彼女は容易に想像できたが、答えはもう、決まってしまった。
「ぼくの美しき花 、一緒に帰ろう」
強く思うことは魔術の基本だ。それが帰りの扉となる。
ヴェイドはごう、と流れる水を遠くに聞いた。押し流されるように体が何処かにとばされる感覚がする。それは転移陣と似ていたが、この世界から追い出されようとしているのだと彼は分かっていた。
ただいまヴェイドさん、と耳もとで声がした。
聞きたいと思っていたあの声音で、あの呼び名で彼を呼ぶ。彼は思わず言葉を返していた。凍りついた心に、ひと筋のひびが入る――…
◆・◆・◆
なんだか、とても良い夢を見た気がする。
いつかのように、暖かな日差しがわたしの顔をてらしている。心地よい微睡のなかで、わたしはそう思っていた。
夢のなかでヴェイドさんが、わたしを抱き寄せながら『おかえり、ぼくの精霊』だなんて言ったのだ。ちょっと恥ずかしい内容だわ……本人にはとてもじゃないけど言えないわね。
思わず目をとじたまま顔があつくなるが、ううん、所詮は夢だものとわたしは割り切った。あの心が凍りついた魔術師が、そんな歯の浮くような台詞を言うはずがない。
そしてふと、思う。
……そういえば、なんでわたしは寝ているんだっけ?
考えてみれば、ずっと記憶が無いような気がしていた。わたしは何をしていたんだっけ。ヴェイドさんと一緒にレオディス王子の治療をしていて、それから?
それから……?
――必ず戻ってくるんだよ、フィオナ。
「……あっ、あああああーっ!!!」
わたしはがばりと起きあがった。そういえば奇跡の花を探しに行く途中じゃなかったかしら。寝ている場合なんかじゃないのに!
だがわたしが身を起こした場所は、意外なことに王宮の一室だった。わたしが薬師モドキとして与えられた、小さな部屋。
「あれ」
どうやってここに戻ってきたのだろう。わたしは目を瞬いた。そしてふいに、ずしりと何かがわたしに倒れこんでいる重みに気付く。
「あ、あれ?」
わたしは謎の光景に言葉を失っていた。そんなわたしを現実に引き戻したのは、一人の青年の声だった。
「ようやく起きたか、フィオナ……」
「アレク」
いつの間にか、部屋の入り口に寄りかかるようにしてアレイスト王子がこちらを見ていた。黒のローブを着こんだ彼は、なぜか“完徹三日目!”というような顔をしている。
「どうしたの、そんなに疲れちゃって」
「ああ、よくぞ聞いてくれた……僕これから死ぬところなんだ。もう魔力がからっぽだよ」
「馬鹿ね、こっちに来なさいよ」
おちゃらける王子に、わたしは笑いながら手を伸ばした。
「ちょっとだけなら魔力を分けてあげられるわよ」
同じ精霊の血を引くもの同士だもの、無理ではない話だろう。だが彼はとっても嫌そうに顔をしかめる。
「誰が好き好んで、こんな集団に……」
「そ、そういえばそうね……」
彼の言いように、わたしは引きつった顔になる。
だってわたしのベッドには、倒れこむようにしてヴェイドさん、カルー、そしてローザリア姫が正体不明になっていたのだから……。
結局、わたしは泉の底で精霊になりかけていたらしい。
そう言ったヴェイドさんは、わたしの髪を撫でながらとても疲れた顔を見せていた。わたしを救いだすまでに色々とあったのだろうが、彼は多くは語らない。ただ一言、「骨が折れたよ」とだけつぶやいた。
「それでレオディス王子はどうなったの?」
「きみが持ち帰った花のお蔭で命を取り留めた」
ヴェイドさんの言葉に、わたしは胸をなでおろした。よかった、無駄ではなかったのだ。まだしばらくは安静にしている必要があるそうだが、じきに彼も以前のような元気さを取り戻すだろう。
そしてわたしは、ひとつ疑問を口にした。
「ねえ、ヴェイドさん。どうしてわたしの名前がわかったの?」
わたしが自分を取り戻すために必要だったという、わたしの本当の名前。フィオレンティーナという言葉は、過去に一度だけ知られてしまったことがあるが、誰にも話したことはなかった。
「フィオル・エン・ティーア」
そんなわたしの問いかけに、彼は言う。
「古代語で、美しく輝く花という意味だよ。アンディーナに文句のひとつでも言いたいよ……フィオレンティーナだなんて、本来の読みをいささか無視しすぎだ。カッタルーダがきみをなんて呼んでいたか、ぎりぎりで思い出して本当によかった。正直なところ、もう助けられないかなって思ったんだけど」
愚痴っぽく言う彼にわたしは笑う。
――そうか、フィオナか。
――では美しき花の娘よ。また会おう。
言われてみると、カルーは最初からわたしの名前を知っていたということになる。美しき花と何度呼ばれたか分からない。
「具眼ってやっぱり凄いのね」
そう感心していると、ヴェイドさんは恨みがましい目でわたしを見る。
「ぼくのことも褒めてくれよ、フィオナ」
「はいはい、ヴェイドさん凄いわね」
「……ああもう」
ヴェイドさんは苦虫をかみつぶしたように顔をしかめる。そしてすぐ隣へと目を向ける。
「おい、カルー皇子。さっさとローズのところに行ってきなさい」
彼は容赦なく、庭の片隅にうなだれ落ちるカッタルーダ皇子を蹴とばした。ローザリア姫への土下座参りの途中で心が折れてしまったらしいカルーは、うう、と小さくうめいている。
「もう駄目だ。彼女はきっと俺を許してはくれないだろう。もう八十回ぐらい会いにいったのに、あの美しい息吹の瞳はひと目さえもこちらを見てくれない」
うじうじと地面をほじくり返すカルーに、わたしとヴェイドさんは顔を見あわせる。そしてヴェイドさんはあきれたように彼に言った。
「馬鹿だな、もっと感情込めてこう言うんだ」
「なんて?」
すこしだけ間があった。
そして、
「……………………愛してる、って……」
そして今度はわたしとカルーが互いに目くばせする羽目になった。ねえちょっと寒気がしたわ、カルー……。見つめた先では、俺に言うなよとカルーが険しい顔を見せている。
「あっ、でもカルー、ローザリア姫が庭に来たわ」
「え、ほ、ほほほんとうか!?」
わたしは庭に出てきたローザリア姫を発見し、慌ててカルーの背中を押した。ちどり足になりながら彼女の前に躍りでたカルーを見届けて、それからわたしはそっと隣の魔術師の手をとった。
「ヴェイドさん、邪魔しちゃわるいわ。行きましょ?」
ひとの恋路を邪魔するものは、馬にけられて死んでしまえ。この世にはそんな恐ろしい言葉があるのよ。
「そうだな」と、微妙な顔でうなずきを返したヴェイドさんを、わたしは思い切りひっぱった。
よく晴れた朝だった。
朝露の輝きを帯びた薔薇の花が静かにわたし達を見守っている。
実は彼と手を繋ぎたかっただけだというのは、……ここだけの秘密なのだった。
fin.
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