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14 鐘楼

 わたしはそれから数日、ヴェイドさんのところに行くことができなかった。

 薬師として与えられた部屋で、わたしはひとりふさぎ込むように薬の調合を続けていた。心配したアレクが何度か部屋を訪れたが、『どうかしたのか』と訊ねる彼に、わたしはただかぶりを振った。

 そしてわたしは、彼にひとつの小瓶をさしだした。

「ねえ、アレク。王子様を使うのはなんだけど、この薬をヴェイドさんに届けてくれる?」

「自分で持っていったらいいじゃないか」

 アレクはそう言いながらも、わたしが調合した薬の瓶を受け取った。以前から意味ありげな発言が多かった彼のことだ、わたしの心情をなんとなく察しているのだろう。

「元気がないな、小さな精霊さん」

 ちゃかすように、彼はわたしの頬をこすった。泣いたのだとばれたくない。わたしは、こちらをのぞきこむように膝を折ったアレクから顔をそらした。

「ちょっと疲れちゃって。でも薬はちゃんと作るから安心して」

「ちゃんと作る、ね……」

 アレクはふっと息をついた。

「こんなにたくさん作って、王宮の庭を枯らすつもり?」

 彼はおかしそうに、わたしの周りを見わたした。一度に作りすぎた調合薬が、瓶、コップ、鍋、そして挙句の果てにはタライにまでとっぷりと収まっている。

「さすがにやりすぎたわ」

 無心になりすぎたのだった。何かに没頭している間は、すべてのことを忘れられたから、気がつけば大量に薬草を煮るわたしがいた。

「まあ凍らせれば保存できるかな。あとで城の魔術師たちにでも聞いてみるか」

 顎に手をあてながら、アレクはそうひとりごちた。凍らせても平気かしら。そしてふと、思い出したように彼はわたしに振り返る。

「そういえば、ローズが君のこと気にかけていたよ」

「ローザリア姫が?」

 わたしは目を瞬いた。

「部屋に閉じこもっていると、侍女から聞いたんだろうな。先日はずけずけ言いすぎたと、反省していたようだ」

 ちなみにこれ、妹から。と、アレクは小さな袋をわたしの手に乗せた。ほんのりと薔薇のかおりがする。ローザリアの花のポプリのようだ。

「気にすること無いのに……」

 わたしは王女からの小さな贈り物をじっと見つめた。


 ――また大切な者を失うのかもしれないと、もしやあなたは恐がっているのかしら。


 あれほどはっきりと言えるのは、ローザリア姫ぐらいだろう。でもきっと彼女も、わたしと同じぐらい傷ついていたはずだ。それは、恋する相手のことについてだけではない。

 人の心に入り込むことは、同じく自分をさらけだすこと。彼女はわたしから憎まれると知っていながら、わたしに真実を告げてくれたのだ。

「ローザリア姫は、本当に根がやさしい人なのね」

 ようやく、わたしは心からそう言うことができた。その言葉に、アレクがやや不思議そうに首をかたむける。

「君たちはとても似ているな。だから僕も、君に構いたくなるのかな」

 誰と誰が、とは言わなかった。おもむろに視線をもどすと、座ったままの姿勢でアレクがわたしをじっと見あげていた。深緑の瞳が、あの姫と重なる。

「僕は君たちが好きだから、幸せになってくれないと困るよ」

「アレクは幸せにはならないの?」

「君が笑ってくれるなら、いまのところそれで十分だ」

 王子はそう静かに言うと、わたしの頭をそっと撫でた。


『フロディスが訪ねて来るかもしれないから、会いたくないならさっさと逃げておけよ、フィオナ』

 アレクがそう言い残して去った後、わたしは部屋のなかで、どうしたものかと思案していた。いつまでも逃げていて良いとは思っていない。そしてこれは、時間が解決する問題でもないのだ。

 ――あなたはヴェイド様にとっての特別なのですわ。あなたを前にしたときだけ、彼はただの人となれるのです。

 どうしよう。

 会いにいかなければと思いつつ、心のどこかで彼が来るのを待っている。そうすれば、わたしは彼を拒むこともできて、言わなくてはいけない質問を口に出さないでも済む。

 ヴェイドさん、わたしはあなたの特別?

 そう訊ねてしまえば、きっと彼は違うと言う。自由の身でいるために、そして心を壊さないまま悠久を生きるために。彼はそう言わなくてはいけないだろう。結局、わたしは傷つくのもいとわず、彼に飛び込む勇気がないのだ。そんな自分のずるさに嫌気がさした。







 高い場所にのぼるというのは、なるほど確かに気持ちがいい。

 わたしは先日ローザリア姫がのぼっていた、鐘楼まで来ていた。いまは真夜中とも言える時刻だった。階段下に見張り役の兵士が立っていて、その鎧が松明の炎にゆらゆらと浮かびあがっている。身を乗り出していると、突風に気を付けてくださいね、とその兵士に注意され、わたしはうなずき返した。

 空を見あげれば、美しい星々がわたしを見おろしている。さすがにローザリア姫のように手すりに腰かける勇気はなかったが、鐘のすぐそばに立っていても周りの景色はよく見えた。

 石造りの床に、わたしはひとりで座りこむ。

 ひんやりとした冷たさが無性に心地よかった。

 こうして開けた場所で冷たい床に座っていると、世界から取り残されたような気持ちになる。これが、かの魔術師をさいなむ孤独なのだと、わたしはなんとなく思った。

 冷えた体には、きっと温かな光は灼熱だろう。

 無理やり連れて行ったところで、それが良いとは限らないのだ。それなら、少しずつ自分から出ていけるように仕向ければいいのだけど、はるか年上の彼をどうにかできるほど、わたしは歳を重ねていない。

 べつに、わたしを特別だと思っていなくてもいい。アレクがわたしに言ったように、わたしだって魔術師ヴェイドが好きだから、幸せになってくれないと困るのだ。

 なのにどうして、こうしてひとりで居ると心に穴が開いたように思えるのだろう?

 わたしの幸せはあなたの隣に。

 わたしは傲慢だ。彼の幸せを願いながら、自分の幸せを願うのだ。

 こうしている今も、傍にいてくれたらと思ってしまう……。


「ようやく捕まえた」

「――っ!」


 ふわりと、心から惹かれるような魔力がわたしを取り巻いた。

 久しぶりに感じた魔術師の気配は、泣きたくなるほど優しかった。そのまま背後から抱きすくめられて、わたしはまた、あの朝のように身動きがとれなくなる。

 もう振りかえって見なくても、背後にいるのが誰なのか、わかってしまうのが悔しかった。そんなにも彼と一緒にいるのだと思い、ふと時が経つ速さを思い知る。時は驚くほど残酷に、わたしたちを通り過ぎていく。

「こんなところで何をしてたんだい? 王宮といっても、夜はさすがに危ないよ」

「そ、そうね」

 耳もとでささやく彼に、わたしは絞り出すような声で返事をした。顔が熱くて、しゃべっているのが自分の声じゃないように錯覚する。

「……そんなに押さえつけなくても、わたし逃げないわよ」

「春といっても夜は寒いからね。魔力量のせいなのか、フィオナは温かいんだよ」

「……そう」

 彼もまた、温かいと思う。彼は確かにここで生きている。

「フィオナ、ここ最近どうしてたのかな。薬だけ寄越して、一度もぼくの部屋に来なかったじゃないか」

 低く、拗ねるような声だった。

 緊張しすぎていっそ泣きたくなる。会わなくてはと思っていた。駄目なら拒むことも出来ると思っていた。なのに今こうして耳もとでささやくように言われると、もはやどうすることもできなかった。

 どうして、こういうときにアレクは邪魔して来ないんだろう。ローズは居ないんだろう。どうしてこうなると分かっていたのに、ひとりきりで部屋に閉じこもって居なかったんだろう?

 わたしの頭のなかは、この魔術師のことでいっぱいになっていた。

 彼に引き取られてずっと一緒に暮らしていたのに、こうして二人きりになることが、これほど苦しいとは思わなかった。でも変わったのは彼じゃない、きっとわたしだ。

 あお打つ心臓をきゅっと抑えながら、わたしは彼の腕のなかで固まっていた。

 本当はヴェイドさんの顔をもっと見たい。あの綺麗な顔が、あの青紫の瞳がわたしを映すのを見ていたい。そうして彼が幸せそうに微笑み返すのを見て、わたしの心も満たされるのだ。

 わたしの幸せは彼の隣に。彼の幸せをただ願うだけでは、すこし足りない。

 そうして、わたしが何も反応できないでいると、彼はわたしの耳もとで小さく息をついた。

「やっぱりきみも、ぼくのことが恐いと思う?」

「ち、ちがうらっ」

 思い切り噛んだ。ヴェイドさんがおかしそうに笑うのがわかった。

「嘘だね、いまのきみときたら、見たことないぐらい固まってるよ。それとも王宮の誰かに何か言われたの?」

「な、なにも言われてないわ」

「じゃあ、ぼくの顔をちゃんと見なさい」

 苦さを帯びた声だった。

「ぼくだって人並みに傷つくことはあるんだよ」

 わたしはその言葉にはっと息をのんだ。思わず身じろぐと、逃がさないと言うようにヴェイドさんは腕の力を強くした。

 逃げないわ。

 わたしは自分と向き合わなければいけない。

「あの、笑わないで聞いてくれる?」

 何回か言いかけた末に、ようやくわたしは言うことができた。

「なに?」

「わたし、ヴェイドさんのことが好きよ」

 もう何度目かになる告白だ。でも、はっきりとそう言えたかは分からなかった。まるで自分の体じゃないような心地がして、ふわふわとした感覚にめまいがしそうだったから。

 心の鍵を解くためには、自分の心に素直になること。

 どうしようもなく今、あなたのことが好き。笑った顔も、怒った顔も、まだ知らないあなたの顔も、全部ぜんぶ好きでたまらない。

 彼は背後で小さく笑った。

「知ってるよ。きみを引き取ったときにも、きみはそう言ったじゃないか」

 おかしそうに言う彼に、わたしが自分が落ち込むのを感じていた。彼は分かってくれなかったのだ。陽の下に引きずり出すには、まだ彼に伝える思いが足りない。

「お願いだ、フィオナ。恐がってるわけじゃないのなら、こっちを見てもらえるかな」

 ここ数日、本当にフィオナの顔が見れなくてがっかりしていたんだ、と彼は言う。わたしはぎこちない動きで振り返った。青紫の静かな瞳がわたしを見つめていた。

「きみはとても不思議な子だ。きみといると、ぼくは本当に生きているような錯覚を覚えるんだよ」

 それは彼が、人の枠を外れていなかった頃の話。

「いまでも、ちゃんと生きてるように見えるわ」

 わたしがそう言うと、彼は壊れ物に触れるように、わたしの頬をそっと撫でた。

「だけどきみも、いつかはぼくを置いていってしまうんだよ」

 長きを生きる偉大な魔術師。

 彼はこれまでに何人の人を見送ってきたのだろう。

「馬鹿ね、ヴェイドさん。置いていくはずないじゃない」

 わたしは耐えきれなくなって、彼の胸に額をおしつけた。彼の鼓動がしっかりとわたしに伝わってくる。温かくて、こんなにもしっかりと生きているのに、彼の心は凍っている。

 わたしの幸せの在り処は、ただあなたの隣だけに。

 離れたくない、失いたくない。わたしはぎゅっと彼の腕をつかんだ。

「もし置いていきそうになったら、迎えにきて。わたしはいつでもあなたの傍にいるわ」

「そうだね」

 本当に迎えに来るのよ。本当に約束よ。

 そうつぶやくわたしに、彼は何度もうなずいた。夜は更け、時は驚くほど残酷にわたしたちを通り過ぎる。

 わたしの愛する水の魔術師。

 強く願うことが魔術だというのなら、わたしの願いをどうか、その冷たい心に聞き入れて――…





.

文章の順番微修正。

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