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10 ローザリア

 ◆・◆・◆


 気がつけば朝になっていた。ふとんの中にくるまりながら、あたたかい、と夢ごこちにわたしは思う。

 わたしは目を閉じたままゆっくりと陽が昇るのを感じていた。まぶたの裏をやさしい陽の光がなでていく。

 いま、何時だろう。もうそろそろ起きて、屋敷の主を起こさなくてはいけない。

 フロディス家に引き取られてから、一ヵ月。彼を起こすのはわたしの役目になっていた。

 今日も忙しい日になるだろうか。

 そしてまた今日も口喧嘩をしてしまうんだろうか。もう少し素直になりたいと思うのに。

 そうして、ゆっくりと閉じていた目を開いて……

 まさかそのまま硬直する羽目になろうとは。


 ど、どういうこと?


 わたしは言葉を失い、そして体はぎくりと固まっていた。

 いつの間にそうなったのか、わたしはヴェイドさんの腕の中だったのだ。彼は眠ったまま、しっかりとわたしを抱え込んでいた。あわてて周囲を見わたすと、昨日、彼が倒れて寝こんでしまった王宮の一室のままだった。

 わたしに触れる彼の腕から、あたたかくて心地よい魔力がじんわりと伝わってくる。今さらの感覚だったにも関わらず、わたしは頭が真っ白になっていた。

 ヴェイドさんの驚くほどきれいな顔が、すぐそこにあった。そして銀細工のような長いまつげが震えるように動いたのを見て、わたしは焦る。逃げなきゃ、そう思うのにわたしは上手く動けなくなっていた。わたしはおかしいぐらい動揺していて、まるで自分の耳もとに心臓があるような気になっていた。

 やがて彼は静かに目を覚まし、きれいな青紫の瞳がわたしを映しこむ。どこか気だるげな表情で、なにも言わず彼はぼんやりとわたしを見つめていた。

「え、えっと……」

 い、いつまでこうしているの?

 無言の彼に戸惑いがちに話しかけるが、水底の瞳はおぼろげにわたしを眺めるだけだった。やがて彼は、ささやきかけるように形のいい唇を動かして、

「なんだ、アザラシかと思ったのに……」

 ……ぐー。

 そしていつものごとく再び寝ついてしまった魔術師を、わたしが思い切り殴ってしまったのは仕方のないことだった。


「そろそろ機嫌を治してくれないかなあ、フィオナ」

 レオディス王子の部屋に向かいながら、ヴェイドさんは困ったように前方のわたしに言った。そんな彼に返事も返さず、わたしは分厚い絨毯を踏み抜かんと、力づよく歩いていた。

 無視を決め込んだわたしは、一度も振りかえることなくここまで来ていた。

「あんまり覚えてないけど、フィオナが魔力を分けてくれたのかな。お蔭でだいぶ元気になったよ」

 ああそう、それは良かったわね。

 わたしは無性に腹が立っていた。こんな年頃の娘をどうこうしておきながら、アザラシをだっこする夢を見ていたなんて失礼な話だわ。

 すっかり熱もひいて体力を取り戻したヴェイドさんは、既にいつもの彼だった。昨日あれほど苛々していた男にはとても思えない。そういう意味では、彼は昨日とても疲れていたのだと思う。だから無意識に、わたしの魔力を求めたのだ。

 過去にわたしは、ヴェイドさんと手を繋いで彼から魔力を補っていたことがある。今朝は単純に考えれば、それと同じことをしていたというだけだ。

 ただそれだけのこと、それ以上でもそれ以下でもない。

 今朝のことがまだ頭から離れなくて、どこかに隠れたい衝動にときどき襲われる羽目になっていたわたしは、自分に言い聞かせるようにそんなことを思っていた。

 絶対に振りかえってやるものですか。

 あんな最低オトコ、最低魔術師。

 どうして彼の顔が見れないのか、その原因を突き止められるぐらいには、わたしはまだ冷静にはなれなかった。



 ◆・◆・◆



「なんだ、結局仲直りはしなかったのか」

 椅子に行儀悪くすわったアレクは、意外そうな顔でそう言った。

 薬師モドキとして与えられた小さな部屋で、わたしは彼を一瞥して、すぐに手もとの薬草を煎じる作業へともどった。どことなく没薬くさく、くたくたと音をあげる鍋の中身はレオディス王子の治療に使うための薬だった。薬師長セルネに相談したところ、こうして薬草を煮つめたほうが薬効成分が出やすいとのことだった。今までわたしがやっていたのは、単純に薬草を粉にするという作業でしかなかったのだ。

 薬を作る工程がめずらしいのか、アレクはもの珍しそうにわたしを見ていた。

「あのね、アレク。仲直りだなんてそれどころじゃないわよ」

「僕にやつ当たりするなよ。今度はいったいどうしたんだ?」

 そう訊かれてわたしはふと、かきまぜ棒を持つ手をとめた。

「…………」

 うーん。

 自分が難しい顔をしているのはわかっている。しかし、彼に訊いたとして解決するような問題だろうか。ほれ遠慮せず言ってみろ、と余裕ぶった表情のアレクにわたしは振り返った。

「顔よ」

「かお?」と、彼は首をかしげた。

「顔が見れないのよ」

「見てるじゃないか」

 きょとんとした様子でアレクが言った。違うわよ、アレク(そっち)じゃないの。

「ヴェイドさんの顔よ」

 わたしは反発するように言い切った。

 ヴェイドさんの顔が、あれからどうしても見れなかったのだ。意地になっていたというのもあるんだろうけど、いざ彼の顔を見ようとすると逃げたいという気持ちが勝ってしまって、結局わたしはヴェイドさんを避けてしまっていた。

「あー……」

 わたしの言葉に、アレクは思案げに顔をしかめた。わたしよりも何歳か年上の彼は、思い当たるところがあるらしい。そして面倒くさそうに彼は言った。

「フィオナはフロディスが好きなんだな」

「ヴェイドさんのことは、前から好きだわ」

「違う、そういう意味じゃない」

 じゃあどういう意味なのよ。

 わたしの疑問に彼は答えをくれなかった。その代わり、わたしの目をじっと見て……

「ていうか、フィオナ。焦げくさい」

「え? あ、あーっ!!」

 気がつけば苦ったらしいにおいが部屋のなかに立ちこめている。せっかく煮つめた薬液が、鍋のなかで真っ黒になっていた。






 わたしがローザリア王女と直接会うことになったのは、その日の昼下がりのことだった。

「ちょっと、そこのあなたよろしくて?」

 書物庫に訪れた帰り、ふいに掛けられた声にわたしは振り向いた。

 そこに居たのはわたしと同じぐらいの――つまり十六歳ごろの少女だった。くせの強い赤みがかった金髪が腰のあたりまで波うち、意思の強そうな緑の瞳がしっかりとわたしを捉えている。

「ええと、あなたは……」と、わたしが言いよどんでいると、

「……あなた、まさかわたくしのことを存じていらっしゃらないの? このローザリア・ミュレイ・セフィールド=リスタシアを知らないだなんて、いったい王宮の女官たちはどういう教育をしていらっしゃるのかしら」

 もはや珍しくもなくなってきた長い名前を口にして、少女は眉をひそめていた。

 う、うーん、彼女がローザリア姫なのね。

 わたしは腰に手をついて睨みをきかせる王女殿下に、戸惑いがちに視線を返した。こういうときにどんな態度を取ればいいのか――例えば顔を伏せるだとか色々あったと思うが、もうちょっとアレクに詳しく聞いておくべきだったと後悔していた。今さら考えても遅かったのだけれど。

「ああローズ、彼女は僕の友人だ」

 完全に行き詰まっていたわたしの前に、ふとアレクが割って入った。彼の神出鬼没ぶりに、初めて感謝する瞬間だった。

「お兄さまの御友人ですって?」

 彼女は疑いの目でわたしを見た。

「わたくしをからかわないでくださいませ。どう見てもちんくしゃの質素きわまりない人種ではありませんこと?」

 彼女の鋭い槍(・・・)が勢いよくわたしを貫き、うっとわたしはのけ反った。

「お兄さま趣味が悪くなられましたわね」、と不愉快そうに述べる王女を前に、成すすべもないわたしである。

「こら、そんな言い方はよしなさい。こう見えて彼女は優秀な薬師なんだよ」

「薬師……? ではあなたが、新しいレオディスの主治医だとおっしゃるの?」

「いちおう、そうなります……ローザリア殿下」

 無免許だけどね、とは言いだせない。ローザリア姫はわたしを値踏みするように、上から下まで眺めまわした。

「わたくし、このような娘に負けましたの?」と、独り言のように言った彼女にわたしが何かを言う暇もなく、姫はずびしとわたしの顔を指さした。

「あなた、昨晩ヴェイド様と夜をともにされたとか」

「え、ええっ!?」

 よ、夜をともに!?

「言い逃れは許しませんわ。このわたくしを差し置いて、いったいどのようなおつもりか、説明していただけますわよね?」

 つけつけと言うローザリア姫の言葉に、わたしは思わずたじろいだ。間違ってもそんな色っぽい事情ではない――というかむしろ“生きる魔力作成機”にされていただけなのだが、言ったところで果たして理解してもらえるのだろうか。

 こちらの事情を知っているアレクは、ちらりとわたしを見て「な、諦めさせたほうがみんな幸せになれるだろ?」と微妙な顔で笑っていた。なるほど、このまま嫁いでしまったりすれば、間違いなく“彼女の心も休まらない”上に“良い結果をもたらすとは思えない”だろう。悲しいかな、淡い恋にひたれるほど、姫は消極的ではなかったのだ。

 そしてアレクは実の妹に顔をもどすと、彼女をなだめるように言った。

「ローズ、十歳ばかりの子に突っかかるのは、立派な王女とは言えないよ」

「ちょっと誰が十歳よ!?」

 至極まじめに諭そうとする王子殿下に、わたしは思わず突っ込んでいた。だが外見の成長が遅いわたしは、はたから見れば子どもだろう。ローザリア姫ははっとしたように自分の頬をおさえた。

「そ、そうですわね。わたくしとしたことが、このような幼子に……」

 ちょっとあなたわたしと同年代ですわよ!?

「そうだよローズ。君は年上のレディとして見本にならなければいけないよ」

 にっこりと笑ってみせるアレイスト。

「お兄さま……」

 も、もうどうにでもしてちょうだい。

 見つめ合う兄妹の横で、わたしはげんなりとしていた。

「ということでローズ、薬師殿が困るからその辺でやめておこう。話の続きはお茶の席でどうかな? どうせならフロディスも招いてね」

 彼がなにを考えているか、なんとなく分かるだけに嫌だった。



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