第34話 閑話 マリとヨシトの交換日記
ミレーヌ町にあるエマ=シンプソンの家の2階の一室が、マリ=マッケンジーの今の住み家である。
リンク商会での仕事を終えた彼女は、お風呂に入った後、机の前に座り、寝る前までの時間を利用して明日の仕事の資料を作成していた。
明日は大きな取引があり、エマの秘書である彼女も同行する。
この資料は、取引先に提出する物で、間違いは許されない。
細かい数字をチェックしながら、彼女は慎重に清書していく。
一時間程で書き終えると、ペンを置いて大きく背伸びをする。
彼女の目線が、机の上の本棚に立てかけてある一冊の分厚いノートに向かう。
何度も読み返したそのノートは、恋人であるヨシト=ウッドヤットとの交換日記だ。
今から三年ほど前、リンク商会に就職して間もなく、片思いが実って彼と恋人同士なってから一週間後、自分から彼にお願いして始めたものだ。
彼女は少し微笑むと、本棚から交換日記を取り出し、一番最初のページを開く。
そうすれば、あの頃の記憶が鮮やかによみがえるのだから。
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「交換日記? 俺とマリちゃんの?」
「はい、あの…、駄目でしょうか?」
マリがそう言いだしたのは、彼と恋人になってから一週間後の事である。
一週間前の休みの日のお昼過ぎ、祖母のエマから、彼が一階で待ってると聞かされて行ってみると、何とパートナーの申し込みをされたのだ。
『…ヨシトさん、おばあちゃんから何か言われたんですか?』
『ああ、言われたよ。出来れば恋人になってやってくれって。でも、いくらなんでもそれは…』
『お受けします!』
『お互いの…って、いいのかい?』
『もちろんです。なんなら、恋人でもかまいません。私、両方とも相手はいませんから』
『…じゃあ、そうしようか。まずはパートナーになって、恋人についても前向きに考えよう』
『はい、よろしくお願いします』
マリは勢いでそうは言ったが、完全に混乱していた。
祖母がそんなお節介を焼くとは、予想していなかったからだ。
その気持ちは一日中続き、午後の修業は全く身が入らなかった。
そして、その夜、初めて彼とのプレイを経験すると、何だかとても恥ずかしくてたまらなくなり、逃げるようにウッドヤット商会を後にしたのだ。
マリは、気が付くと自室のベットの上に座っていた。
どうやって帰って来たのかなんて、覚えてもいない。
そして、さっきまでの事を思い出して頭を抱えて反省する。
彼は優しかったし、プレイはとてもよかった…、と思う。
だけど、自分の態度は最悪だった。
彼が話しかけて来ても返事も返さず、ガチガチに緊張して何も出来ず、いくら初めてだからとはいえ、これではパートナー失格だ。
彼も呆れ果ててしまったに違いない。
これでは恋人なんて、とても望めないだろう。
だけど、せっかくのチャンスなんだから、簡単にはあきらめられない。
思い悩んだ末、考えついたのが交換日記だった。
これなら、自分の気持ちを素直に書けるし、今日の事も謝れるだろう。
元々、文通仲間だったから、彼の筆まめな所は知っているので迷惑でもないだろう。
そして、一週間後の今日、会って真っ先に話したのが交換日記の申し込みだった。
マリの申し出に、ヨシトは「もちろんいいよ」と答えてくれた。
それからマリは、プレイの時に言いづらい事や言いたかった事を交換日記に書いて彼に渡す。
普通は直接その場で聞くが、マリは緊張してそれどころではないのだから仕方ない。
ヨシトもマリを責めず、丁寧に返信する。
だから、日記の初めの部分は、結構きわどい事が書いていたりするのだが、人間族は性交渉に罪悪感や羞恥心を持っていないので、他人に見せびらかしたりしなければ問題無い。
さすがに、一カ月もするとプレイにもすっかり慣れた為に、交換日記に質問を書かなくなったが、その代わりにマリは、意を決して、交換日記に『恋人になってください』と一言だけ書いて渡す事にする。
ドキドキしながら受け取った日記の内容は、『今更かい! 初めの部分を読みなさい』
マリは急いでページをめくり、自分が初めに書いた文章を見る。
マリの書き出しは、『わたし、ヨシトさんと別れたくありません』
その横に、ヨシトの字で『君さえよければ、恋人としても付き合ってほしい』
マリは全く気付かなかった。
彼が書いたページは何度も読み返したが、自分が書いた文章を読み直した事が無かったからだ。
つまり、ヨシトにとっては、あの夜からずっとマリは恋人だったのだ。
交換日記を胸に抱き、嬉しくてポロポロと涙がこぼれ落ちた。
それからも、形を変えて交換日記は続く。
何せ二人とも社会人なので、平日は仕事で会えない。
四日に一度じゃ足りないから、その分も書き込みは増える。
この頃の出来事が、一番ノートに占める割合が高いだろう。
マリは、主に社会に出てからの戸惑いや相談事を書いている。
ヨシトは、それに対する労いや、日常の出来事をしたためる。
そして、相談事の返事は二人が会ってから直接話す。
例えノートに書いていなくても、マリはヨシトの優しい言葉を一字一句思い出せる。
彼は、優しくて賢くて経験豊富で、だからマリはだんだん辛くなっていった。
交換日記を初めて八カ月が過ぎると、マリの文章に変化がみられる。
徐々にその量が減り、内容もそっけなくなってくる。
この頃マリは、恋人関係の解消を真剣に考えていたのだ。
だから、書かれた文章は、魔道具造りの事がほとんどである。
マリは本当に幸せだった。
だけど、その幸せに溺れる愚か者では無かった。
彼女は一応ゾンメル教徒であり、自分には厳しい。
彼女は、彼の力になれない、能力もつり合わない自分を責めていたのだ。
人間族は、恋人に対して誠実であろうとする。
協力出来て、お互いを高め合う関係がベストなのだ。
つまり、自分がまず自立して、相手と向き合えなくては駄目なのだ。
それに当てはまらない人間族も多いが、そんな人はネオジャンヌには住めないだろう。
それから三カ月近くもこの状態が続くが、意外な事から問題は解決する。
マリが、祖母のエマに相談し、彼女がその案を実行したからである。
マリは、あえてヨシトの失敗を責めて、彼の様子を観察したのだ。
そこに、『完璧超人』の姿は無かった。
恋人に怒られ、うろたえる男しかいなかった。
エマが言った『男女関係のレベルは、2人に差はない』がマリの心にぴったりと当てはまった。
自分も、彼に嫌われたらどうしようかと思い、あせったりうろたえたりしていたのだから、彼の気持ちはよく解った。
つまり、2人は恋人としては対等で、しかも未熟だったのだ。
これは、2人の生い立ちに関係しているが、獣人族の様な恋をする人間族だという事である。
一流の人間族にとってはあり得ない事で、社会的にはまずい事だとされている。
人間族の人生は長い。
恋する気持ちも、普通は獣人族より強く無いとされる。
一方的に寄りかかったり、協力も成長も出来ない関係は、一時の気の迷いで、論理的でも理知的でもないので、長い人生を過ごせる関係にはならないと思われている。
恋愛に溺れる恋人達は、一流の人間族からは冷たい目で見られて馬鹿にされる。
つまり、あなたさえいれば他に何もいらないなんて、自分をコントロールできない愚か者の言う言葉なのだ。
それを理解したマリの決断は早かった。
レベルが低ければ、レベルアップすればいいだけだから、今からやる事は決まってくる。
それが自らの心に反していても、例え辛い事であったとしても、これからも人間族であり続けるなら克服しなければならないのだ。
そして、2人は話し合う。
以前聞いた母親の意見を参考にして、マリはヨシトに提案する。
『性欲と恋する気持ちを分けましょう』
『2人だけでいいなんて気持ちを抑え、常に社会との関係を意識しましょう』
『それを優先して、お互い注意し合いましょう』
マリの提案に、ヨシトも賛成する。
『感情をコントロールしよう』
『好きな気持ちはそのままで、自制心を高めればいい』
『教師と生徒の関係は上手くいっている。それを応用しよう』
2人は最後に誓約する。
『『それでも駄目なら、2人の関係は解消しよう』』
辛い決断だったが、それくらいの覚悟が必要だと思ったのだ。
ヨシトは、まだ40歳前、マリはまだ20歳にもなっていない。
結婚に逃げる訳にはいかないのだから。
第一、ヨシトはエマに誓約している。
マリが100歳を超えるまでは結婚はしないと。
マリも言われなくても解っている。
まだ社会に出て間もない自分が、子供など育てられない事を。
それは決してお金の問題では無い。
社会で生きて行くための暗黙の了解である。
それを破って突っ走ると、自分達だけでは無く、マリの家族や生まれてくる我が子にも迷惑がかかるのだから。
だから、それからの交換日記の内容は、お互いのまずい点を注意する書き込みが多い。
まるで、細かい事を突っ込み合う嫁姑の口ゲンカの様な書き込みだったが、2人は真剣で必死だった。
例えばヨシトは、朴念仁なくせに、無節操に女性に優しくする事が多い。
それを一々書き込まれているので、事情を知らない人が見たら別れる寸前だと思うだろう。
これは彼が、前世の記憶に意識を引っ張られているからであるが、もちろん直さないと都合が悪い。
ただ、今でもよく失敗してマリに怒られているのだが。
一方マリは、あまりにも異性に対してそっけなく接し過ぎる。
どうしても自分の事より、ヨシトの事を優先してしまいそうになる。
これも、一流の商売人や社会人を目指すなら改善すべき点である。
ただ、ヨシトに注意点を書き込まれると、『今は反省しています』とか『仕事の時は上手くやっているから大丈夫よ』と返事を書いて来るから、あまり反省はしていないようだ。
まあ、その辺はエマが見ているので、問題無いだろうが。
そんな書き込みが一年くらい続くと、文章は落ち着き、その量もめっきりと減ってくる。
もう文章にしなくても解り合えるし、感情のコントロールも上手くいっているから書く事が無いのだ。
この頃から、ヨシトの秘密の告白が始まる。
それらは、交換日記に記される事は決してなかった。
もう2人にとって本当に大事な話は、直接会って話すのが当たり前なのだから。
その内容に、マリはさすがに驚いた。
彼が、思考念波魔術の使い手である事や、三つ目のギフト『防御』の存在。
その扱いに苦労し、魔道具造りを始めた事や今の職業に就くきっかけとなった事も話してくれる。
もう今は、完全に『防御』ギフトを制御出来ているという話を聞いて、マリは安心する。
それだけでは、話は終わらない。
彼の両親と名乗る不思議な人物の事や、学生時代に強化人間に間違われた事、自由魔素との親和性が98%である事等々、とても信じられない話がポンポンと飛び出すが、彼女はもう動じない。
彼女にとっては、それは些細な問題なのだ。
そもそも、異常に数値が高いからといって、それが日常生活に何の関係があるのか?
マリの数値だって、獣人族から見たら異常なのだから。
それよりも、彼が自分を信頼してくれた方が何倍も嬉しかったし、彼の恋人である事が誇らしかった。
それから今現在までの約一年間、穏やかで充実した、心の底から幸せを感じる日々が続いている。
交換日記は、マリが二十歳になった時にその役目を終え、もう新しく書きこまれる事は無い。
2人はもう恋人としては行き着いてしまった。
この交換日記が、もう何も書き加えられないのと同じくらいに。
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マリは、少し古びた分厚い交換日記を大事そうに本棚の元の場所に戻す。
(この幸せがずっと続けばいいのに)
ヨシトと付き合った3年間を思い返すと、そんな風に思う。
だが、成長したマリには解っている。
人の心は、移り行くものだ。
例えそれが、良い方向でも悪い方向でも、強くなっても弱くなっても留まる事は無い。
交換日記の様に、閉じてそのままの状態を保つ事など出来ないのだ。
マリは、彼を愛する気持ちが恋人としてのレベルを超えようとしているのをはっきりと自覚している。
確認しなくても、彼もそうだと解ってしまう。
だが、今は何も考えられない、考えたくない。
彼女は交換日記を閉まった様に、その思考を閉じる。
明日は、自分のキャリアアップの為にも大切な取引がある。
それに集中するために、いつもより少し早めにベットに潜り込む。
(女神様、どうか日々が平穏でありますように)
マリはそう祈ると、ゆっくりと目を閉じた。




