22 同期
職場の食堂。
外の見えるカウンター席で、サンドイッチを片手に宮本部長からもらったプログラムの教材を開いていた。
昔から数学系が苦手な私には、さすがに難解な記述ばかりで……
(これは……文系脳の限界かも……)
「小川さん。隣、お邪魔してもいいかな?」
声に振り返ると、延原君が少し気まずそうにトレイを持って立っていた。
「ええ、もちろん。どうぞ」
広げていた資料やノートを片側に寄せると、彼は私が広げていた本やパソコンの画面を見て、少し意外そうな顔をした。
「……プログラムの勉強してるの?」
「そう。宮本部長に『多少なりとも知識があった方が仕事もしやすいだろう』って言われて……」
「そっか」
延原君は私の手元と画面をちらりと覗き込むと、ふっと目を細めた。
「あー……そこ、『変数名』が違ってる」
「え? どこ?」
彼が身を乗り出し、私のキーボードにすっと手を伸ばしてくる。
彼の袖口が私の腕に軽く触れ、その近さに思わず背筋が伸びた。
「あ……本当だ。名前が抜けてる……」
「で、こっちの処理は――」
延原君の指が、キーボードをカタカタと軽快に叩いていく。
画面の上を滑っていく呪文のようなコード。
(うーん、何をどう直しているのかは1ミリも理解できない)
ついていけていないのがバレたのか、彼は少し苦笑いを浮かべながら説明を加えてくれた。
「こんな感じかな?」
「おぉ! さすが天才プログラマー!」
「褒めても何も出ないよ」
「あははっ」
「ふふふっ」
二人で顔を見合わせ、以前のように笑い合った。
彼とこんな風に、冗談を言い合うのは久しぶりだ。
以前は、何でも話せる仲の良い同期だった……。
彼は私の左手の薬指にはめられたペアリングにちらりと視線を落とすと、静かに口を開いた。
「栞……あー、『小川さん』」
「ん? 『栞』でもいいよ。加奈ちゃんもそう呼んでるし」
「ダメでしょ」
真面目な顔できっぱり言い切る彼を見て、思わずクスッと笑ってしまった。
本当に彼は、どこまでも律儀な人だ。
「……悪かった。僕は君を、ちゃんと一人の女性として見ていなかった」
「……どう見ていたの?」
「たぶん――条件の合った『結婚相手』として」
「それは……私も同じだよ」
私はそう答えて、窓の外へと視線を向けた。
遠くに、この前彼と最後に話した川のほとりが小さく見えた。
きっと私たちは、似た者同士だったのだ。
誰にも本音を言わないし、見せない。
「あとは……君があの『彼』に、僕には一度も見せたことのない表情を向けていることに苛立って……『ずるい』と思ってしまったんだ」
「ずるい?」
「ああ……君に置いて行かれたような気がして」
彼は自嘲気味に、少し寂しそうに笑った。
その言葉を聞いて、何となく彼の寂しさが分かった気がした。
私はそっと、左手にはめた指輪を右手で優しくさすった。
「けど……『彼』が危険だという認識は変わってないよ。それは君も分かってるんだろ? だからプログラムの勉強を始めたんじゃないのか?」
「……うん」
彼は横に置かれた専門書やノート、パソコンを一通り見ると、小さく息を吐いた。
「協力するよ。分からないことがあったら、いつでも聞いて」
驚いて思わず顔を上げると、延原君はわざと少し胸を張って言った。
「なんたって『天才プログラマー』だからね」
「あはは! 自分で言ってる!」
目に見えない不安が最近少しずつ膨らんでいたから、彼という心強い味方ができて胸の奥がふっと軽くなった。
彼は本当に根が優しくて、いい人だ。
彼を愛することができたら良かったのに――と、ほんの少しだけ思った。




