11 過去
「栞」
短く鋭い延原君の声に、先ほどまで浮き立っていた気持ちが一気に冷え込んでいくのを感じた。
「少し話がしたいんだけど」
「……私は話すことなんてないよ」
振り返って一言だけ返し、そのまま歩き去ろうとした。
その瞬間、腕をぱっと掴まれた。
「なぁ。今、行き場のない男と住んでるって杉田に聞いたんだけど」
(加奈ちゃん! 余計なことを面倒な奴に……!)
延原君の肩越しに、遠くから心配そうにこちらを見ている加奈ちゃんの姿が視界に入る。
私は小さくため息をつき、延原君に視線を戻した。
「分かったから手を離して。場所を変えよう」
腕を振り払うようにして言い捨て、ハイヒールを力強く響かせて歩き出す。
横には、自分とほぼ同じ目線の高さで延原君が並んで歩いていた。
「……ハイヒール、履いてるんだ」
「そうだね」
会社近くの喫煙可能なカフェに入った。
ホットコーヒーを二人分頼み、私が財布を出してお金を払おうとすると、延原君が制するように私の分まで支払いを済ませた。
こういう所は、ほんとスマートだな――と冷ややかな感心をしながら、トレイを持って迷わず喫煙席へと進む。
席に腰を下ろすと、特に許可も取らずにポケットから煙草を取り出して火をつけた。
「また煙草、吸い始めたんだ……」
「禁煙する必要がなくなったからね」
「……なんだか、雰囲気変わったね」
「そう?」
「前はハイヒールだって履かなかった」
「もともと、視界が高くなるハイヒールは好きだったよ。履いてなかっただけ」
「……」
ハイヒールを履かなかった本当の理由は、あえて口にしなかった。
背の低い延原君に配慮していたからだなんて、今さら言う気にもならない。
深く煙を吸い込み、ふーっと目の前へ吐き出す。
何か言いたげに自分を見てくる視線を無視して、ストレートに問いかけた。
「で? なんの用?」
「一緒に住んでる男って……この前、ファッションビルで会った男なのか?」
「そうだけど。延原君には関係ないよね?」
そう切り返すと、延原君はスーツの内ポケットから小さな箱を取り出した。
明らかに指輪が入っていると分かるサイズだった。
「何のつもり?」
「もう一度、やり直したい」
「は? 私とは結婚できないんでしょ?」
「けど、別れたいと思ってたわけじゃない」
意味が分からない。
思わず額を押さえた。
「親なら説得する。そんな『行き場のない男』なんて……やけになって家に連れ込んで、煙草を吸ったりハイヒール履いたり、髪色も明るく変えた……?」
一瞬で頭に血が上り、呼吸が荒くなった。
何言ってるんだ、こいつは?
自分が振ったから、私がやけを起こして自暴自棄になっているとでも思っているのだろうか。
「……ずいぶんと自意識過剰だね」
吐き捨てるように嫌味を言った。
「そんなに自暴自棄にならなくていいんだ。あれから色々考えた。やっぱり、栞がいない人生なんて考えられない」
そう言って、彼は箱を開けて指輪を見せてきた。
その指輪は――以前付き合っていた頃、二人で一緒に選び、予約までしていた代物だった。
とっくにキャンセルされているものとばかり思っていた。
「受け取れない」
「栞」
「今は……大切な人がいるから」
「そんな行き場のない男と結婚するつもりなのかよ? あいつは知っているのか? 君が――」
「私たちのことは、延原君には一切関係ないよ」
きっぱりと言い放つ私を、彼は哀れむような、心配するような目で見つめた。
そして、指輪を私の目の前に静かに置く。
「お正月、一緒に実家に連れていくって前に約束したよね? ……待ってるから」
それだけを言い残し、延原君は店を出て行った。
残された私は指輪を見つめたまま、しばらく静かに煙草をふかしていた。
――その一部始終を、カフェの外から見つめている視線があることにも気づかずに。




