2.猫娘
白い霧が、巨大な鳥居の周囲にゆっくりと広がっていく。
視界がみるみる悪くなった。
四月とはいえ、これほど広範囲に霧が発生するなんて、どう考えても異常だ。
「……なんだ、こりゃ?」
真っ先に異変に気づいたのは、禿頭の男だった。
「おい、さっきのガキがいなくなってるぞ」
そう言ったのは、相棒の金髪男だった。髪を針のように逆立てた、いかにも気の荒そうな男だ。
二人は先ほどまで、倒れている少女にばかり気を取られていた。そのせいで、鳥居をくぐるまで、俺がこっそり立ち上がっていたことに気づかなかったらしい。
禿頭の男は不機嫌そうに鼻を鳴らすと、急いで少女のもとへ向かった。
今は、何よりも先に少女を確保するのが最優先だ。この得体の知れない白い霧に紛れて逃げられでもしたら、たまったものじゃない。
だが、男が少女のもとへたどり着くより先に、目の前の白い霧が風に吹かれたかのように揺らいだ。
次の瞬間。
腹部に、何かが勢いよく押しつけられた。
「ぐおっ!?」
それが何なのか認識する間もなかった。
相手は勢いを緩めることなく、俺の拳を腹にめり込ませたまま、男を後ろへ押し続けた。
突然の出来事に、禿頭の男は踏ん張ることもできない。そのまま道路まで押し出され、ようやく俺の手から解放された。
「……あのガキ、聖駆者だったのか!?」
金髪の男が目を見開き、慌てて俺のあとを追ってきた。
聖器によって身体能力を強化された今の俺なら、成人男性一人くらい、片手で簡単に押していける。
道路に出たところで、さらに力を込めた。
男の身体が勢いよく弾き飛ばされる。
地面を滑るように後退した禿頭の男は、ようやく動きを止めると、腹を押さえて片膝をつき、荒い息を吐いた。
俺も息を切らしていた。
先ほど受けた攻撃のダメージに加え、突然の激しい運動。強化された身体は驚くほどよく動くものの、まだ完全には慣れていない。
少しでいいから、息を整えたい。
そう思った矢先だった。
背後から足音が迫ってきた。
反射的に身体を横へ転がす。
起き上がろうとした、その瞬間。
禿頭の男の拳が、すぐ目の前まで迫っていた。
「……っ!」
思わず目を見開いた。
拳が、俺の頭を貫いていた。
そう見えたのだ。
一瞬、全身が震えた。だが、すぐに気づいた。
これは現実じゃない。
俺の頭が攻撃を受ける未来を、実際に拳が届くよりも先に読み取っていたのだ。
そのとき、奇妙な光景が目に飛び込んできた。
相手の拳が描く軌道が、はっきりと見えていた。
それだけじゃない。
拳が最終的にどこへ到達するのかまで、目で追うことができる。
これは、単に視覚が鋭くなったというだけではなさそうだった。
脳の中にある別の何かが働き、周囲で起きていることから導き出された予測までもが、目の前に映し出されている。
男の拳は、俺の目には明らかに遅く見えた。
まるでアクション映画のスローモーションだ。
横へ転がって攻撃をかわし、ようやく立ち上がる。
「……反応だけはいいじゃねえか、このガキ」
二人がかりの攻撃を立て続けにかわした俺を見て、禿頭の男が呟いた。
俺は右手の人差し指に嵌まった起源の指輪を見下ろした。
胸の奥から、少しずつ自信が湧き上がってくる。
――これなら、勝てるかもしれない。
そもそも、もともとの俺は反射神経が人並み以上に優れていたのかもしれない。ただ、自分ではそれを意識したことがなかった。
聖体強化によって、身体のあらゆる機能が大幅に引き上げられた。その結果、相手の攻撃を見切り、瞬時に反応できるようになったのだろう。
今の俺の目と脳は、まるで超高速カメラのようだった。
一瞬で過ぎ去る光景を捉え、それをスローモーションのように処理する。
俺の目には、相手のあらゆる動きが、通常の半分ほどの速さに感じられた。
しかも、それだけではない。
相手が動いたあとの残像だけでなく、動きの軌道から予測された、まだ到達していない未来の「虚像」までもが見えていた。
だからこそ、その後の攻撃もすべてかわすことができた。
二人は互いに連携し、うまく挟み込むように攻めてくる。だが、どれほど息の合った攻撃を繰り出そうと、俺には一度も当たらない。
あと少しで命中する。
そう思った瞬間、攻撃は必ず空を切る。
二人にしてみれば、まるで幽霊でも相手にしているような気分だろう。
「なんなんだよ、こいつは!?」
ついに禿頭の男が頭を抱えた。
「ただのガキだろうが! まだ高校生にもなったばかりみてえなガキが、なんでこんな……!」
何度か攻防を繰り返すうちに、俺にも相手のことが少しずつわかってきた。
禿頭の男が手にしている、太く黒い鉄鎖。
おそらく、あれが男の聖器なのだろう。
あの鎖は、必要に応じて真っすぐに伸び、鉄の棒のように使うこともできるらしい。
一方、金髪の男は素手だった。
聖器らしきものは見当たらない。ただ、あいつの肌は黄銅のような色に変化し、異様なほど硬くなる。
いったい、どういう仕組みなのだろう。
疑問は残るが、今は考えている場合じゃない。
相手の特徴がある程度わかったところで、俺は反撃の可能性について考え始めた。
攻撃を予測して避けられるのなら、逆に、その能力を利用して攻撃を仕掛けることもできるんじゃないか?
ちょうどそのときだった。
鉄鎖が瞬く間に真っすぐ伸び、禿頭の男が突きを繰り出してきた。
身体をひねってかわす。
すると男は間髪入れずに鎖を横薙ぎに振るった。
目の前に、鉄鎖の虚像が浮かび上がる。
それは、これから鎖が通過する位置を示していた。
俺は試しに、その虚像が示す位置へ手を伸ばした。
次の瞬間。
本当に、鉄鎖を掴むことができた。
「……っ!」
触れた瞬間、焼けるような痛みが神経を走った。
思わず目の端がぴくりと引きつる。
なんだ、この痛みは……。
まるで歴史の先生に、定規で手のひらを叩かれたときのようだ。
記憶を失ってから、忘れてしまったことは山ほどある。
それなのに、この痛みだけは、妙にはっきり覚えていた。
「なっ……!?」
「嘘だろ!?」
二人が驚愕の声を上げる。
だが、俺はそんな二人に反応する暇さえ与えなかった。
鉄鎖を掴んだ、その瞬間から反撃は始まっていたのだ。
右手の人差し指にはめた起源の指輪から、大量の白い霧のような物質が噴き出した。
周囲を覆っていた白い霧も、もとはといえば、すべてこの物質だった。
ただし、霧のように見えるだけで、実際には細かな固体が集まってできている。
以前、学校の屋上へ続く扉を開けたときも、この物質を扉の隙間に詰め込むことで、鍵の仕組みを突破したのだ。
そして、この白い物質には名前があった。
――「釈界」。
釈界が瞬く間に右手を包み込む。
俺は勢いよく一歩踏み込み、鉄鎖を力いっぱい引っ張った。
「うおっ!?」
禿頭の男の身体が大きく前につんのめる。
その隙を逃さず、右拳に力を込めた。
そして、男の胸へ叩き込む。
次の瞬間。
男の口から血が噴き出し、その身体が後方へ吹き飛んだ。
右拳を左の手のひらに打ちつける。
今度は左手にも、釈界が広がっていった。
これが、起源の指輪の「聖決」だ。
聖器には、それぞれ固有の特殊能力が備わっている。
そして、その一つひとつの能力は「聖決」と呼ばれていた。
釈界は、炎のように俺の両手を包み、白い輝きをまとって揺らめいている。
それなのに、熱さはまったく感じない。
釈界にどんな能力があるのか、俺はまだ思い出せていなかった。
だが、今はそんなことを考えている場合じゃない。
頭の中を支配していたのは、ただ一つの思いだった。
――こいつらを殺す。
反撃は、まだ終わっていない。
足に力を込め、地面を蹴る。
次の瞬間、俺は弾丸のように飛び出していた。
「ちくしょうっ!」
先ほど一発食らったばかりの禿頭の男は、まだ体勢を立て直せていない。
そこへ再び俺の拳が迫る。
男は悪態をつきながら、鉄鎖を振るって迎撃してきた。
だが、俺にとっては、そんな攻撃も無駄だった。
鎖をかわすたびに、一歩、また一歩と前へ進む。
そして、禿頭の男との距離があと数歩になったところで、ようやく金髪の男が割って入ってきた。
それでも、俺の勢いは止まらない。
二人がどんな動きをするのか、俺にはわかっている。
だからこそ、二人を相手にしても、恐れる必要などなかった。
鉄鎖が横薙ぎに迫る。
同時に、金髪の男の拳が真正面から飛んでくる。
正反対の方向からの挟撃。
普通なら、どちらか一方をかわしたところでもう一方の攻撃を受けるはずだ。
だが、俺は目だけを素早く左右に走らせ、二人の動きを同時に捉えた。
片手で金髪の男の拳を正確に押しのける。
その一方で、もう片方の手では鉄鎖を掴み、自分のほうへ思いきり引っ張った。
二つの動作を、ほぼ同時に。
淀みのない、完璧な動きだった。
「ぐっ……!」
禿頭の男が前につんのめり、危うく転びそうになる。
そこへ、身体をひねって放った蹴りを叩き込んだ。
男は数歩後退する。
だが、金髪の男はすでに体勢を立て直していた。
黄銅色に変化した拳が、再び迫ってくる。
あれが、あいつの聖決なのだろう。
肌を岩のように硬くする能力。
まともに受ければ、こちらの拳が砕けてもおかしくない。
俺は背中をわずかに反らし、鋭い拳を紙一重でかわした。
そして、そのまま数歩駆け寄り、距離を詰める。
走り込む勢いと、もともとの拳の威力。
その二つを乗せた一撃を、金髪の男の胸へと叩き込んだ。
「ぐっ、は……!」
男は息を詰まらせ、後ろへよろめいた。
その隙を逃さず、さらに追撃を仕掛ける。
背後では、禿頭の男が再び鉄鎖を振るっていた。
狙いは俺の後頭部。
小脳があるのは、ちょうどそのあたりだ。そこへ強烈な一撃を食らえば、運が悪ければそのまま命を落としかねない。
だが、俺はすぐには避けなかった。
まだだ。
まだ、かわすべき瞬間じゃない。
今は目の前の金髪の男を仕留める。
狙いは明確だった。
聖体強化によって身体のあらゆる部分が強化されているとはいえ、頭部はほかの部位に比べれば脆い。
どんな相手であろうと、頭部は優先して狙うべき急所だ。
俺は容赦なく拳を叩き込んだ。
嵐のような連撃を受け、金髪の男がついに地面へ崩れ落ちる。
黄銅のように硬い肌も、俺の攻撃を防ぎきることはできなかった。
俺は身をかがめ、さらに一発を繰り出す。
その瞬間、鉄鎖が頭上を横切った。
間一髪でかわす。
後頭部を、風がかすめていった。
まだ時間はある。
禿頭の男が鎖を引き戻し、再び横薙ぎに振るうまでに、もう一撃を叩き込める。
俺は報復するかのように、金髪の男の頭部へ拳を打ち込んだ。
男は、一時的に意識を失った。
その直後、俺はすでに横へ転がり、相手との距離を取っていた。
一人、倒した。
残るは、あと一人。
俺は、最初に俺を痛めつけた禿頭の男をまっすぐに見据えた。
男は倒れた相棒にちらりと目をやると、すぐに俺へ視線を戻した。
二人がかりで俺を挟み撃ちにしてから、まだ十分も経っていない。
それなのに、相棒はすでに倒れ、自分も何度も攻撃を受けている。
一方の俺は、まだ余裕さえ感じさせる様子だった。
禿頭の男は、もはや少しの油断もできなかった。
額から冷や汗が流れている。それを拭うことすらせず、ただ俺の動きを警戒している。
隙を見せた瞬間、襲いかかられるかもしれない。
俺の身のこなしは、あまりにも素早く、そして獰猛だった。
男が驚くのも無理はない。
見たところ、俺はまだ若い。
それなのに、戦い方はまるで歴戦の戦士のようだった。
――今の高校生って、みんなこんなに強いのか?
そんな疑問が頭をよぎっていたのかもしれない。
俺の両手では、白い「炎」が音もなく燃え盛っていた。
束の間の静寂を破ったのは、俺だった。
脚に力を込め、地面を強く踏みつける。
石畳に、小さなひびが走った。
そして、弓から放たれた矢のように飛び出す。
瞬く間に、禿頭の男との距離が縮まった。
男は必死に俺の進行を食い止めようとする。
だが、その努力も結局は無駄に終わった。
攻撃も防御も通用しない。
そんな状況では、戦場に立つ意味すらない。
俺は、その現実を男に思い知らせてやった。
身軽で、素早く、容赦のない俺。
それに対して、禿頭の男はまるで甲羅を背負ったゴリラのようだった。
動きは鈍く、ひどく滑稽に見える。
再び、不意を突く一撃。
拳が男の腹部にめり込んだ。
「ぐっ……!」
痙攣するような痛みに、男は思わず身体を折り曲げた。
最初に俺を殴りつけた、その報いだ。
間髪入れずに踏み込み、左拳を振り上げる。
拳が顎を鋭く打ち抜いた。
息が詰まるような痛みが腹部を襲い、さらに顎から脳天へと突き抜けるような衝撃が走る。
もう、どこがどれほど痛むのかさえわからなかった。
痛みが波のように押し寄せ、身体の大半を飲み込んでいく。
口の中には、生臭い血の味が広がった。
先ほどのアッパーで舌を噛んだのだろう。
突然、男の身体が傾いた。
一瞬、足元から地面が消えたような感覚に襲われたはずだ。
俺が脚を横から払ったせいで、男は転倒しかけていた。
だが、地面に倒れ込むはずの身体は、なかなか落ちてこなかった。
腹部に、先ほどまでとは比べものにならないほど重い一撃が叩き込まれたからだ。
地面に落ちかけていた身体が、わずかに浮き上がる。
さらに、もう一発。
それでも身体は地面に落ちず、後方へと宙を移動していく。
一発、また一発。
俺の拳が、確実に男の身体を捉える。
そのたびに男は後ろへ吹き飛び、すぐには地面へ落ちてこない。
――いったい、どれほどの反射速度があれば、こんなことができるのだろう。
もはや男には、痛みを感じる余裕さえ残っていなかった。
痛みの海に沈み、溺れ、息もできない。
最後の一撃。
俺は全身の力を拳に込め、男の頭部めがけて思いきり殴りつけた。
凄まじい威力だった。
男の頭が、首を軸にして百八十度近くねじれる。
宙に浮いていた身体が最後に一度回転し、次の瞬間、地面へと激しく叩きつけられた。
暴力がもたらす快感に、心臓が高鳴る。
胸の奥に、何とも言えない爽快感が広がっていた。
それなのに、俺の表情は冷めきっていた。
感情など微塵も浮かべず、死んだ男を見下ろしていた。
静寂の中。
夜を切り裂くように、銃声が響き渡った。
金髪の男が意識を取り戻したらしい。
相棒がなす術もなく殴り殺されるのを目の当たりにし、拳銃を取り出して俺の頭に狙いを定め、発砲したのだ。
だが、銃弾は俺の頭をかすめ、背後の林へと飛んでいった。
俺は振り返りもしなかった。
ただ、わずかに頭を傾けただけだ。
銃弾が髪をかすめて通り過ぎていく。
そして、ゆっくりと男へ振り向き、眉をひそめた。
金髪の男は、何度も引き金を引いた。
だが、俺はゆっくりと歩いたり、わずかに身体をずらしたりするだけで、次々と銃弾をかわしていく。
別に、銃弾より速く動けるようになったわけじゃない。
弾丸の軌道を予測し、撃たれるよりも早く避けているのだ。
その結果、傍から見れば、まるで銃弾を見切っているかのように映るのだろう。
やがて、弾倉が空になった。
それでも金髪の男は銃を下ろさなかった。
俺に銃口を向けたまま、無意味に引き金を引き続けている。
カチ、カチ、と虚しい音だけが響いた。
男の姿を見つめながら、俺はただ、哀れだと思った。
そのとき。
金髪の男の悲鳴が夜に響いた。
地面に倒れた禿頭の男のそばから、聖器である鉄鎖が飛び上がったのだ。
流星のように夜空を駆け、そのまま闇の彼方へと消えていく。
聖器の持ち主である聖駆者が死んだ。
だからこそ、聖器は次の聖駆者を求めて去っていったのだ。
俺は、流星のように飛び去る鉄鎖を見つめ、ほっと息を吐いた。
人を殺した。
それも、一度に二人も。
その事実は、間違いなく理解していた。
それなのに、不思議と何の感慨も湧いてこなかった。
まるで、今までに何人もの人間を殺してきたことがあるかのように。
命が失われる瞬間を目の当たりにしても、どこか現実味がない。
まるで、SF映画の中の出来事を眺めているようだった。
……いったい、俺は何者なんだ?
そんな疑問が浮かびかけたが、すぐに頭を振って打ち消した。
今は、それどころじゃない。
もう帰らなければ。
あまりにも時間を無駄にしてしまった。明日は早起きして学校へ行かなければならないのだ。
俺は巨大な鳥居へ向かって歩き始めた。
そこで、ふと思い出す。
猫耳と尻尾を持つ、あの奇妙な少女。
彼女は、まだ目を覚ましていなかった。
呼吸は弱々しく、その姿はひどく痛々しい。
放っておけば、どうなってしまうかわからない。
しばらく少女の顔を見つめた。
そして、ゆっくりと腰をかがめ、傷ついた身体をそっと抱き上げた。
思っていたよりも、ずっと軽かった。
俺は少女を抱え直すと、そのまま家へ向かって歩き出した。




