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完全なる光の欠如。見えるのはただただ黒いだけの虚無。距離感のない、平板な全き夜の世界。これでは何も見えないのと変わりがない。
光に覆われた世界は見る者の眼を焼き焦がすが、一面の暗黒空間は眼に優しすぎるが故に、却って人の心を不安にさせる。何を見ているのか何が見えていないのか、そんな判断さえつかない、何もない闇の中。
何もないはずの暗闇に、暗黒色の平たい板が浮かんでいるのが見えるのは何故だろうか。あらゆる輪郭の失われた、盲いた空間の中にあって、確かにそれは自らの存在を主張し、現実に空間の一部を占領していた。稀薄な暗闇を一点に凝縮させた真の闇が、周囲の虚空を切り離してますます自らの優位を誇示するかのような有様が、依然として闇だけの世界に現前と展開されていた。
この世界には黒しか存在せず、黒でないものは存在できないのだろう。暗黒空間の無を従えて立ち現れた黒い平面。質は違えど、それらは遍く紛うことなき黒そのもの。
いかなる前触れもなく、全身に凄まじい重力を感じた。
足許の地面が不意に消えたのか、唐突に体が闇の世界を下方へ落ち込んでいった。黒一色の異常な空間を訝る間もなく、ままならぬ世界の変化に理不尽だと怒る間すら与えられずに。
体がガクンと落ちる感覚がして、壱八はようやく眼覚めの時を迎えた。蒲団に仰向いたまま眼を擦ると、固まった眼脂がポロポロと眼尻から落ちた。
喉の奥に異物感を感じ、起き上がりざま力なく咳き込む。湿っぽい毛布を押し退け、胡座をかいてシーツの上に座った。頭痛がするのは単に寝過ぎただけだろう。額の傷のせいではないようだ。
窓から差し込む西日が押し入れの襖に斜角に当たり、埃の多い室内に陽光の道筋がはっきり見て取れた。程なくルーティン通り地の果てに消え去る太陽の、最後の抵抗の始まりだ。鮮明な朱色に包まれた西の空。寝覚め前に見た暗闇の夢とは対照的な光景だった。
上掛けのない電気炬燵が、六畳間中央に据えられている。炬燵テーブルの上には、スマホが乗せてあるだけ。雑巾で拭き取ったテーブル表面は、それから半日しか経っていないのに、早くも埃の膜がうっすら広がっていた。
首の後ろを煩わしげに掻きつつ、壱八は昨夜の恐ろしい体験を思い返した。
まさかプロデューサーの南枳実まで殺害されようとは、事件を知る者の誰に予測しえただろう。〈ガダラ・マダラ〉の出演者では飽き足らず、犯人はいよいよ制作者にも魔の手を伸ばしてきた。しかし何故、犯人は当該番組の関係者に的を絞り、凶行を重ねるのか。
「犯行の目的が、これではっきりしましたね。犯人は番組を潰そうとしているんですよ。何らかの理由で」
昨夜の別れ際、将門はそう言っていた。プロデューサーの死が、継続の決まっていた番組に多大な影響を与えることは間違いない。今度こそ放映が打ち切られるかもしれないのだ。次の収録を目前に南枳実は殺害され、同時に番組の命運も尽きようとしている。
だが、それはいかなる形であれ番組が存続する限り、この連続殺人が終焉を迎えることはないという意味にも取れる。壱八にも傷を負わせた昨夜の一件が、本当に連続殺人の終尾となりえるのか。
プロデューサーの部屋扉の前にて、警察の到着を将門と二人で待っていると、二号室の住人の連絡を受けた最寄りの署の警官がマンション四階に駆けつけた。警視庁からの応援が来るまで二人は帰宅を許されず、結果、因縁の無造作ヘアと顔を合わせる破目になったのだった。
津村刑事の怒りようは尋常でなかった。現場から占い師の指紋が多数検出されたことにより、怒気は頂点に達した。詰問に近い尋問も犯行を確信するが如き口振りで、どんなに将門が否認しようとも、ここまで膨らんだ疑惑を帳消しにすることはおよそ不可能だった。疑ってくれと言わんばかりの符合の連続は、津村刑事に占い師の証言を単なる言い逃れと信じ込ませるのに充分だった。
第二の事件の数多い目撃者の一人が円筒将門であり、第三の事件では犯行現場の隣家が自身の店舗兼住居。しかも第四の事件では死体の第一発見者だ。連続殺人と目されている事件に、全く関係のない第三者が三度続けて巻き込まれることが、果たしてありえるのか。津村刑事が将門を疑うのも、決して謂れなきことではなかった。
度重なる偶然は、常に人の力の介在を予感させるものだ。同じサイコロの目が三回続けて出ただけでも、そこに細工を疑う人間は一定数いる。犯行に出くわす確率を賽の目で譬えるのは無理な話だが、そこまで運のない人の割合が、全人口の二百十六分の一よりはずっと少ないだろうことを考えると、将門の立場は反比例的に危うくなるのだ。
とはいえ将門本人は、津村刑事の追い込みにも動じることなく、己の危うい立場もさほど意に介していなかった。死体発見後、早くここを離れようという壱八の言葉も聞き入れず、警察が来るまで現場の状況を独りで調べ回ったほどなのだから。手袋も嵌めず、家具やあちこちのドアに指紋がつくのすら構わずに。
プロデューサーの頭部を打ち砕いた凶器らしき物は、どこにも見当たらなかったと将門は言っていた。また死体の握っていたIC定期券に書かれた〈4〉の文字は、犯人の手によるものと断定した。四番目の犯行を示す犯人からのメッセージだろうと。
もう一方の手中にあったフォークも、犯人が後で手に握らせたのだと指摘した。利き腕の問題を持ち出す以前に、どの部屋を見ても食事の用意がなかったのが論拠らしい。
訳知り顔で述べ立てる占い師に何となく反発心がもたげ、壱八は反論のための反論を思いつくまま口にした。
「食事を済ませた直後に襲われたんじゃないか」
「フォークの先端が汚れていないのは何故です?」
「台所で洗った後だったんだ」
「キッチンに洗い立ての食器なんてありませんでしたが?」
「なら、犯人との格闘に使用したんだよ」
「頭をかち割りに来た相手に、食事用のカトラリーで応戦ですか。チャンバラにもなりませんね」
一笑に付されて終わった。残念だが将門の言う通りだった。あの遺体にあのフォークは確かに不自然すぎた。
けれども、どんな目的でフォークを握らせたかについては、将門も首を傾げるしかなかった。一人黙考に耽る占い師を尻目に、血のついたティッシュを掌で丸め、壱八はジクジクと痛みの止まない額に手を当てた。出血はいつの間にか収まっていた。




