第20章・飽くなき怨恨
まだ、どちらも動かない。誰かが勝手に出してそのままにしていたらしい卓球台を挟んで、夜季と暮越は向かい合っている。
(マズイな……。暮越とやり合うとこっちも無事じゃすまねぇ)
夜季としては、出来る限り殴り合いは避けたいところだった。そもそも、なぜ暮越が自分たちを狙っているのかさえわからないのだから。
(話し合いで解決……か。ダメ元で聞いてみっかな)
硬く身構えたまま口を開く。
「暮越……なんで」
しかし、最後まで言い切ることはできなかった。暮越の手から卓球のラケットが放たれたからである。今まで背中に隠し持っていたらしい。
ガン、と鈍い音がして、ラケットが壁に当たる。
「ん〜? なんだって、ヨキ」
暮越がニヤニヤと笑っているのを見ると、初めから当てるつもりはなかったようだ。
「早く殴りかかって来いよ。チンタラしてねーで」
一歩、暮越が距離を詰める。
「理由が……わからない」
「あ?」
「なんでお前が俺たちにつっかかってくんのか? それがわからねーまま終わりたくない」
夜季は動かない。ここで退いては、精神的に追い詰められてしまう。
「理由ねぇ……。それを言わねえとお前が本気にならねえってんなら、話すしかねえな」
――暮越和真の過去。
暮越は小学4年生になるまで、九州北部の都市に住んでいた。当時の暮越はまだ”いじめっこ”ではなく、ごく普通の少年だった。
そんな彼が、最も心配していたことがある。それは2つ下の弟のことだった。
「弟の名前はよぉ、……タイチってんだ」
「タイチ?」
聞き覚えがある。”じぃ”こと唖倉浪才の書いた小説で、今まさしく上映中の映画『神の唄う街』の主人公と同じ名前だ。
「この名前のせいで……タイチはいじめられていた」
――この本のタイチは、いじめられたおかげで有名になれたんだぞ。お前も、いじめられたら将来有名になれるんじゃねー?
子どもらしい、安直な発想がいじめの種だった。タイチは兄と違って気が弱く、いつも怯えているばかりだった。
「そんな弟をかばうのが、俺の役割だったんだよ」
タイチに暴力を振るうものは、暮越によって数倍の痛手を返された。それが兄として出来る精一杯の防衛措置だった。
しかし、その行為は結果として最悪の結末を迎えた。
子どもの心理は複雑なもので、暮越によって報復を受けた者はますますタイチに向けて怒りを募らせた。
――自分は弱いくせに、兄貴が強いからって偉そうにしやがって。
実際には、タイチはただ普通に生活しているだけだったが、”いじめっこ”達にはそうは見えなかった。そして、高まったストレスを発散するためにやり口を変えた。
「ある冬のことだ。俺が学校から帰った時、タイチはまだ帰っていなかった。不思議に思って弟を探しに町に出た。そして……」
タイチは、半ば凍りついた池の中にいた。
いじめっこ達は、「誰がやったかわからないように、事故に見せかけて」タイチを凍った池に向かって突き飛ばしたのだ。予定では、タイチが氷の上で転び、起き上がる前に逃げ去るつもりだった。しかし、タイチの体が氷の上に乗った途端、氷が砕けた。
バギン、音を立て、割れた氷の隙間にタイチは落ちたのだ。いじめっこ達はこの時すでに逃げ出しており、氷の砕けた音は聞こえていたがそのまま走り去ってしまった。
「俺がタイチを見つけたとき、まだ息はあった。すぐに救急車を呼んだおかげで命は助かった。だが、精神的な恐怖のせいで……」
重い風邪が治った後も、タイチは極端に液体を恐れ、コップの水すらロクに飲もうとしないようになった。そして同時に人間不信にまで陥ってしまい、普通の学校生活を送る事は困難になった。
暮越が最初に行ったこと。それは弟を氷の池に突き落した犯人を突き止めることである。そのことを最も恐れたのは当のいじめっこ達ではなく、暮越の両親、そして教師だった。
「和真はきっと犯人に報復するつもりだ。これ以上事件を大きくしたら、タイチにますます災難が降りかかるかもしれない」
そして、両親と学校の行動は素早かった。犯人を突き止める前に、暮越を遠いところへ飛ばすことにしたのだ。そうして、暮越は荒んだ心のまま、親戚の住む魅月町へ引っ越してきた。
「俺は許せなかった。おやじを、おふくろを、そして先公どもを。人が一人死にかけたってのに、事故で済ませやがった」
「……」
暮越が大人や社会を嫌う理由がそれだった。
「こっちに越してからも、色々と手を尽くして犯人を探ろうとした。だが、小学生の俺には不可能なことだった」
社会に対する苛立ちと自分の無力さが、暮越を非行に走らせていたのだ。
「だが小6の時、ふと思いついた。本当に犯人はわかっていないのか? てな」
「……?」
一瞬、夜季には暮越の言っていることが理解できなかった。
「これだけの騒ぎになって、犯人が一人も名乗りをあげないってのはおかしい。先公どもは、犯人を知ってて隠していたんじゃねえか? そう思って、おれはこっそり前の町に戻って調査をはじめた」
「風邪を引いたと言って学校を休んでた時だな」
「そうだ。そしてわかった。犯人の一人が、ある教師に自白していたことがな。だが、その教師はそれを隠ぺいした。他の教師たちにも伝えず、自分の胸にしまっていやがった」
暮越の額に血管が浮き出る。肩を震わせ、怒りにわなないている。
「問題を大きくしたくなかったんだろうな。そいつはよぉ。『事件』じゃなく『事故』で済ませたかったんだ。……そいつのおかげで、タイチを突き落したやつらは今も平然と暮らしてやがる」
暮越の復讐の矛先は、その教師に向いた。突き落した張本人を突き止めることはできなかったが、事件を覆い隠そうとした教師も同等の悪人だった。
「だが、そいつはすでによその学校に転勤していた。俺はまたもターゲットを見失って、半ば復讐を諦めかけていた。……ところが今年、そいつはこの学校に転勤した」
「今年……? ま、まさか、その教師ってのは……!」
「ゴメンね、西条君」
木崎は、腕を掴んだまま言った。
「こうしないと僕の身が危ないんだ。君には罪はないけど、生贄になってもらうよ」
あらかじめ待ち受けていたらしく、草陰から数人の男たちが現れた。いずれも暮越の仲間だ。
「君がステージに立たないとこの映画は完成しないんだよね? しばらく大人しくしてもらうよ」
顔中に汗を浮かべ、震える声で木崎は言った。




