ノーサマーデイズ1
暑い、暑い、ああ暑い。
とにもかくにも暑い。むしろ熱い。さらに言うなれば厚い毛布に挟まれているように厚くて熱くて暑い。
今の気分を例えるならば、業務用ガスコンロが全力全開の火力を発揮している中、フライパンの上で肉が焦げるまで焼かれながら、尚且つ蒸し器の肉まんのごとく、高熱の蒸気を浴びながら息をするのも億劫に……
「お兄ちゃん……誰に向かって何を喋ってるの? 扇風機は返事はしてくれないよ」
「……ん、僕なんか言ってたか?」
「フライパンでどうとか、肉まんがどうとか?」
どうやら暑さにやられて思考を思考のまま留めることができずに思っていた事をそのまま吐き出してしまっていたらしい。妹が何やら少し哀しげな眼でこちらを見ている。違う、別に僕はぼっちじゃない。寂しさを紛らわす為に扇風機に名前なんてつけたりしてないぞ。
「お腹すいているなら何か作ろうか? そうめんならすぐ作れるよ」
「ええい、無駄に優しくするんじゃない。別にお腹は減ってないから大丈夫だ……ってかお前、何度も言ってるけどな、部屋に入る時はちゃんとノックしろよ」
「ちゃんとノックしましたー」
「ノックと同時にドアを開けても意味がないんだよ」
「違うよお兄ちゃん、ドアを開けてからノックしたんだよ?」
「なお、意味無いわ!」
自分の部屋のドアを開けるように、何事もなく部屋にずかずかと入り込んでくるよりかは、幾分かはマシにはなったかもしれないが、ちゃんと家族間でもルールは守らないといけない。
「別にいいじゃんかぁ、兄弟なんだからー」
「兄弟にも、プライバシーというのが必要なんだ」
「お兄ちゃんのケチーっ」
可愛らしくもベロを出したりする不機嫌な妹も今や中学2年生になり、あと数年も経てば成人の仲間入りを果たすのだ。今のうちに厳しく大人の常識というものを教えてやるのが兄としての努めだろう。兄弟、家族間であってもプライバシーというのは厳しく守っていかないといけないのだ。
特に思春期真っ盛りの男子高校生の部屋に女子が入ってくるなど、なおさらである。あれがああなって、こうなって、そうなった、あはーんな本とかを、いたいけな女子中学生に見せるわけにはいかないのだよ。
「これも全部お前のことを思って言ってることなんだぞ」
僕は間違えてない、僕は決して間違った事は言っていない。
「別に私プライバシーとかいらないよ?」
「いる、いらないとかの話じゃないんだけど、まあとりあえず、ノックをして返事があるのを確認してから入るように、わかった?」
「はーい」
やや不服そうだが、いつも聞き分けだけはよろしい可愛い我が妹のリン。守るかどうかは別だが。
何度も一応注意はしているが、もちろん、あはーんで、うふーんな本は、そう簡単に見つけることはできない場所に隠してある。部屋に入った所でそう簡単に見つかる事はまずないと思うけれども、念には念をだ。見つかってしまってからでは、何もかも全てが遅いからだ。
そんな事を考えていると、携帯のメール着信音が鳴る。
携帯を手に取りメールの受信フォルダを確認してみると、未読が一件。メールの中身を開くと一文。
『墓場公園に集合。』
一瞬だけ、部屋の中が涼しくなった様な気がするのは気のせいだと思いたい。
「誰かからメール何て来てたの?」
勝手に画面を覗き込もうとする妹を、瞬時にベッドへ投げ飛ばす。
「ぶはぁー! 一体急に何をするのさお兄ちゃん!」
「見るな、死ぬぞ!」
「え、それどういう事?」
は、つい、オブラートに包むことなく喋ってしまった。
「いや、な、なんでも無い、クラスの友達だよ」
「ふーん……そーかそーか」
何か含みのある笑顔を見せる。
「で、夏休み中に連絡があったって事は、そのお兄ちゃんが内緒にする誰かさんとどっかに遊びに行くんじゃないの」
「いやいや、行かないよ」
何故、この殺人的な暑さの中、墓場公園などに行かなければいけないのか。まあ、確かに精神的な意味では一気に涼しくなれることだろうけど。
そう、季節は夏真っ盛り。校長先生のどこかで聞いたことのあるフレーズの幾つかを繋ぎ合わせただけの、中身があるように見せかけた無駄に長いスピーチを聞かされた終業式も終わり、学生の長期休暇期間である夏休みを迎え、絶賛夏の暑さに参ってしまっている僕である。
「ええー、その女の子可哀想だよっ!」
「いや、待て待て! ていうか、誰も相手が女だなんて一言も言ってないんだけど!」
「ふふん、それは妹のカンってやつだよ、実際お兄ちゃん顔に出てるからばればれだよ」
僕は一体、どんな顔をしていたのだろうか。きっと絶望的な顔に違いないのだけれど、それで分かってしまうなら、本当に兄弟間にプライバシーなんて合ってないようなものなのかもしれない。
「お兄ちゃん、なんか予定あるの? ないなら遊んで来なよー、予定ないでしょ? 扇風機は私が相手しておいてあげるからお兄ちゃんは心おきなく遊びに行ってきても大丈夫っ!」
「扇風機が心残りで外に出たくないなんて僕は一言も言ってない。扇風機にそんな深い思い入れないよ!?」
「それじゃあ、今度からちゃんと名前をつけてあげないといけないね」
「つけません、絶対につけない!」
「ええーなんでつけないの? 名前がない扇風機なんて、ただの扇風機だよ?」
「まぎれもなくこれはただの扇風機だっ!」
ふと漏らした独り言がとんだ方向へと話がすすんでしまった。
「それじゃあ、お兄ちゃんなんでそんなに外に行きたくないの?」
「暑いから嫌なんだ」
「夏は暑いものだよ?」
「僕は暑くない夏が来て欲しい」
「暑くない夏なんて種の無いスイカみたいなものだよっ!」
「スイカに種が無いといけないみたいな言い方をするけれども、普通に売ってるからな」
「それじゃあ、カレー粉の入っていないカレーみたいなものだよっ!」
「それはもうただの野菜スープだ」
別に不味くはならないだろうけれど、それはもう別の料理だ。ポトフ的な感じに仕上がるのだろうか。
「もう、ダメだよーお兄ちゃん。そうじゃなくても基本的にお兄ちゃんは帰宅部で、全く運動していないんだから、今にそのままだと亀みたくゆっくりしか動けなくなっちゃうんだからねっ!」
「良いんだよ、亀は最後には勝つんだから」
「あ、そっか」
いや、そこ納得するところじゃないんだけどね。まあ、どっちでもいいけどさ。
うさぎと亀が競争する話。足に自信のあるうさぎが、ぶっちぎりで亀を引き離すが、余裕こきすぎて昼寝をしてしまう。その間にも亀はゆっくりだけど、それでも確実に前に進んで、遂には昼寝をしているうさぎを追い抜かしてゴールしてしまうという、最後まで諦めずに頑張ったものが最後に勝つという大どんでん返し的な物語だ。
「それじゃあ、お兄ちゃんが亀なら私はうさぎだねっ! 私は絶対に昼寝なんかしないから、絶対に負けないんだから覚悟してっ!」
「うん、まず断る」
「ええっ!? 何で何で? つまらないよっ」
「まず亀はうさぎと競争なんかしません。そんな勝率の見えない不毛な勝負は挑まない。勝負をしなければ勝ちも負けもないのだよ。大体勝ち負けで全て物事を決めようとする風習がお兄ちゃんは納得いきません」
「それじゃあ、とりあえず走りにいこうかお兄ちゃんっ!」
「何故にっ!?」
いつのまにか部屋着からジャージ姿に着替えてきている妹。え、なにどのタイミングで着替えたのこの子。いやいやそれよりも一体何を考えているの。ついさっき話してた内容は何処か天空の彼方に飛んでいってしまったのかい。
「この際、暑さの限界を超えれば新しい世界が舞い降りて来るかもしれないよっ! さぁ、お兄ちゃん走りに行くよっ!」
いかん、モードに入ってしまっている。
我が妹こと、中山田リンはスポーツ万能女子である。身体を動かす事がとにかく大好物な活発な女子中学生である。それが故に発作的に、とにかく身体を動かしたい症候群が発生するので大変困っている。僕は基本的にインドアだ。別に身体を動かすことが嫌いなわけではないけれど、面倒臭い事と、しんどいことが嫌いなんだ。なんでこんな熱光線を発している中、走らなければいけないんだ。それ、どんなマゾプレイ?
「お兄ちゃん、おねがーい?」
「断固として断る」
「ええー……でも、確かに今日は暑いからしょうがないか」
スポーツ万能少女の妹もさすがに今日の気温にまいっているようで、その場で力なく寝転がる。
「……というか、なんでこんな暑い思いをしなくちゃいけないんだ」
「夏は暑いものだよ?」
「僕は暑くない夏が来て欲しい」
「暑くない夏なんて、スイカの無い種みたいなもんだよ!」
「いや、スイカの無い種ってなんだよ。僕が言いたいのは、昨今こんな暑さを打破する文明の利器がどこの家庭にもあるはずだろう。何で、こんな温い風をただかき混ぜるだけの機械しか無いんだよ」
名も無き扇風機は温い風を部屋の中でぐるぐるとかき混ぜているだけで、一向に身体を冷まそうとしてくれる気がしない。むしろ暑い。
「文明の利器……ってエアコンのこと? ダメだよ、去年の夏終わりに壊れちゃって動かなくなっちゃったでしょ? 今週末にくる電気屋さんに直してもらうまでは使えないよ」
窓側の壁の天井近くに、少し型式が古いエアコンがある。少し古くたって動けば構わない。7畳位の部屋の広さだから威力が弱くてもすぐに涼しくなるのだから。この暑い夏の中、部屋を快適な環境に誘ってくれる、こいつは神にも匹敵する。
だが、そんな神も今はお休み中である。基本的に夏しか働く場面がないのだからしっかり働いてほしい。とんだサボり魔の神様もいたもんだ。
「去年の夏の終わりに壊れたのがわかっていたなら、何でその時に直さなかったんだよ。今年になって使おうとしたら、困るってわかってたのにさ」
「お兄ちゃんが、『来年にでも直せばいいでしょ?』とか言って自分でやるわけでもないのに面倒臭がって直さなかったんじゃん」
はい、その通り。去年の僕が目の前にいたら、国語辞典の角でフルスイングしてやりたい。
リビングに行けば、僕の部屋にあるものよりも最新型のエアコンがあり、涼むことが出来るのはわかっているんだが、快適な空間がリビングにあるのと、自分の部屋が快適になるのでは意味合いが違う。
自分の部屋。それすなわちマイワールド。自分の世界を極楽天国な状況にしてくつろぎたいと思うのは至極当然のことではないだろうか。
「あ、お兄ちゃん。これがいわゆる自業自得ってやつだねっ!」
「いや違う、僕は別に面倒臭がって去年、修理を頼まなかったんじゃないんだ。よく言うだろう、時間が全てを解決してくれるって、我が家の無駄な浪費を避ける為、時の力に賭けたんだよ。そう、これは自分の邪な考えではなく、あくまで中山田家の未来を見据えてだな」
「あ、お兄ちゃん。これがいわゆる自縄自縛ってやつだねっ!」
「意外と難しい言葉知ってるねっ!?」
たしか、自分の言動で自分を縛っていき不利な状況になっていくとか、そんな意味だったろう。ちくしょう、あの幼かった妹がどんどん成長している実感をこんな所で感じるとか思わなかった。お兄ちゃんはなんだか寂しい気持ちでいっぱいです。
「さて、リンよ」
「ん? なあにお兄ちゃん」
「最近、学校ではうまくいっているか? 何か悩み事があったら何でも言ってくれ」
最近、いささか兄としての威厳が下降しつつあるので、ここらで少し兄らしい一面を見せておかなければ、中山田家の居場所が無くなってしまうような気がする今日この頃。今でこそお兄ちゃんお兄ちゃん、と言ってくれてはいるものの、そのうち、お兄ちゃん、臭いっ! 汚いっ! 気持ち悪いっ! という三冠王を飾ってしまう日が来るかもしれない。兄離れがいつか来るとしても、それだけは避けたい。
「学校かぁ、んー特に悩み事とかはないかなぁ」
「いや、何かあるはずだ。お兄ちゃんには分かる、まるっとお見通しだ」
兄の威厳、兄の威厳、兄の威厳、兄の威厳、兄の威厳、兄の威厳、兄の威厳、兄の威厳、あにのいげん、アニノイゲン、アニノイゲン……? おっといつのまにか、ドリンク剤の名前のようになってしまった。というか気づいたが兄の威厳とはなんだろうか。
緊急脳内会議を始めようとしていた頃、リンは人のベッドでコロコロと行ったり来たり転がりながら器用に喋る。
「えへへ、さすがお兄ちゃんっ! リンが悩んでいるのに気づいちゃったかぁ」
何故か嬉しそうにそう言いながらひたすら転がる。どうやら当てずっぽうがいい具合にヒットしたらしい。これは、兄の威厳(?)を取り戻すための絶好のチャンスだ。
と、思いながら冗談抜きで、リンに悩み事があるという事実に驚いている。
我が妹、中山田リンは、誰からも好かれる、万能スポーツ娘で、基本的にポヂティブガールであり、むしろ落ち込んでいる人を見かけては、声をかけて笑顔にしてあげるという平成の世に舞い降りた天使とまで言われているリン。(例のファンサイトに記載されてあった)そんなリンの悩み事とは一体どういうものなのか。
「最近、少し悩んでいることがあってね」
「ふむ、どうした?」
少し深刻そうな顔をしている妹。一体どうしたものやら。頼むから、僕のキャパを超えるような悩み事でなければいいけれども。
「……切れないの」
「ん、何だって?」
「100メートル走が9秒切れないのっ!」
「切るなっ!」
僕のキャパは瞬時にはち切れた。中学生の妹の悩みが、世界のスプリンターの記録を真っ二つに切ろうとしているだなんて誰が思うだろうか。
「な、何かの間違いじゃないか? というか10秒は切っているのか? いや、10秒台でもおかしいわっ!」
「うんっ! 私が昔から走ることが大好きなのお兄ちゃんも知っているでしょ? 10秒台は中学1年生の時にとっくにマークしているよ。毎日走っているうちに、今年に入ってから9秒台で走ることが出来るようになってきたんだけど、中々9秒の壁が厚くて」
厚いどころか、その壁はまだ人類未踏の域だということは知っているのか。流石にこれは兄を騙そうという可愛らしい妹ジョークというものではないかと疑いかけたが、この妹は基本的に僕に対して嘘をつくことはない。誰に対しても、正直者であるのかもしれないけど、僕が知っている中でリンは、嘘をついたことが無い。
リンは昔から走る事が好きだった。小学生1年生の頃から、運動会の徒競走の時はまるで、風に乗ったのではないかと思えるくらいに綺麗に走り去ってみせたのを今でも覚えている。
ふと、妹の足を触ってみる。足首、ふくらはぎ、太もも。固くもなければ、柔らかすぎる事もない、良い感じに無駄なく引き締まった筋肉というのだろうか。
「ん、んん、お兄ちゃんくすぐったいぃ」
「あ、悪い悪い」
「んしょっと、だから最近の悩みは、伸び悩みだね。んん、タイムを縮めたいのだから縮み悩み?」
それ以上、速くなってしまったら世間はもちろん、世界が黙ってはいないだろう。
「というか、先生の前でそんな記録を叩き出したら大騒ぎになったんじゃないか」
「んーん、先生の前でそんな速く走ったりしないよ? 体育の授業で走るときは、出来る限り抑えめで走ってる。タイムを測るときは、休日の誰もいないトラックでこっそり走って、友達に測ってもらってるんだよ」
人差し指を唇に当てて、「もちろん友達には内緒にしてもらってね」とのこと。
「なんでわざわざそんな事を?」
「だって、面倒臭いじゃんか」
当たり前でしょ、と言わんばかりの顔で応える面倒くさがりの妹の顔を見て、またも改めてこいつは兄弟なのだと感じてしまった。
「やっぱりスポーツは楽しんでやらないともったいないしね!」
「うん、確かにそうだ」
100メートル走を9秒台で走る女子中学生なんていうことが公に知れたら、一躍ヒーロー扱いになる事は間違い無いだろう。テレビ局からの取材などももちろんあるだろうし、瞬く間に日本中のお茶の間に「中山田リン」の名前が知れ渡ることになるだろう。並外れた身体能力を持つリンに誰もが将来を期待し、今まで通りの生活は跡形もなく崩れ落ちるに違いない。平凡な日常が非日常に変わっていく事を考えると自分のことではないのにぞっとしてしまう。
だが、考え方を変えれば、これは妹の人生を左右する事になるかもしれないのだ。将来有望な妹の事を考えると兄の心情としては、なんとも判断しにくい所ではある。だが、結局の所、人生を決めるのは自分自身であり、リンの人生はリンのものだ。そのリンが、そんな人生を歩むつもりはないというのであれば、それはそれで良いのだろう。誰かが強制する人生ほど意味を成さないものはないのだから。
「あ、でも先生の前で本気出した事があったよっ」
「本当かっ!? 大騒ぎになったろ」
「んーん、『あれ、ストップウォッチ止めるの早かった?』って言って、何度かやり直しになってらちがあかないから、最終的に私がゆっくり走ったの」
うん、現実を受け止めることができなかったんだな先生よ。分かる、分かるよその気持ち。僕だったら、ストップウォッチを瞬時に投げて現実から眼を背けていたに違いない。
「……そうだな、リン」
「んん、なぁにお兄ちゃん?」
「練習も身体を壊さないように、ほどほどにな」
「うんっ、ありがとうお兄ちゃんっ!」
どうにか絞り出した、兄的アドバイスにどうやらご機嫌を良くしてくれたのか笑顔で僕のベッドの上をゴロゴロする。
眼を回すまで永遠と転がっていると思いきや、急に何かを思いついたかのようにピタリと動きを止めて唐突に聞いてくる。
「そういえば、お兄ちゃんも最近悩み事あるんじゃないかな?」
「……なんで、そう思うんだ?」
「悩み事っていうか、最近のお兄ちゃん何だかおかしいなぁって思う所があるんだよね」
「たとえば?」
「んんーたとえば、夢でうなされてたり、鼻血出してたり、私少し心配だよ? お兄ちゃんが危ない道に走るんじゃないかって」
「夢でうなされているのと、鼻血を出していることで、どうしてそういう考えになるんだよ!?」
それに鼻血に関してはこの前、龍音寺に記憶を消されて以来、寝てる時に出したりしてない。
「だって男の人が鼻血を出すのは、基本的にいやらしい事を考えている時なんでしょう? 寝ながら出すなんてよっぽどいやらしい事を考えていてたんだね! だから夢でうなされているのは、きっといやらしい事を考えて、警察に捕まった夢を見ているにちがいないよ」
「鼻血を出す男子イコール、変態、という考えはただの偏見だっ!」
「え、そうなの?」
びっくりした顔をするリン。一体どこの誰からの情報でそんな誤った認識を与えてしまったのだろうか。
まあ、実際のところあながち間違いではないが、世の中の鼻血を出してしまう健全な男子の為に、僕が代表してここは訂正しておかなければならない。
「でも、鼻血抜きにしても何だか最近少し変かなぁって思うよお兄ちゃん? いつも授業が終わったら真っ先に家に帰ってくるのに、急に夜遅くに帰ってきたり。制服を泥だらけにして帰ってきたり、ちょっと元気無さそうにしてたり」
「あー、大丈夫だよ。帰りが遅いのは、そのなんだ少し遊んでいただけだよ。元気なさそうにしていたのはきっと僕の大嫌いな暑い夏の季節が来たから、少し参っているだけじゃないかな」
心配そうな顔をしているリンに嘘をつくのは、何だか少し心苦しくもあるが、それもしょうがない。それに『嘘』もあいつのものに比べれば可愛いものだろう。
『嘘』と『毒』を撒き散らかす『龍音寺麗羅』。あいつに出会ってから、僕の学園生活は一変した。
悪の組織だか何だか分からないが、龍音寺目当ての奴らとのやり取りに、全く何の関係の無い僕は巻き込まれてしまった。
海パン一枚を履いた首の無い筋肉ゴリゴリのマッチョという奇妙な物体を創り出し自在に操る、派手な格好をしたク金髪少年。
その上司に当たるのかわからないけど、辺りの風景を一瞬にして雪国の景色に変えてしまう程、強力な氷の魔法を使う妖艶で魔女の様な雰囲気を持つレヴィアと呼ばれた女性。
そこから『破魔の力』という、魔法の効力を打ち消すことのできる由緒正しそうで胡散臭い、秘められた力が覚醒した……この平凡な僕が。
そんな激動の数日間も、さすがに夏休みに入り、龍音寺と接することが無い為か、ここ最近やっと平穏な日々を味わうことができている。
例の組織の連中が、狙ってくる事もあるのではないかと不安になることもあったけど、特にあれからこれといったピンチな状況に陥ることはない。ひょっとすれば、爺や辺りが暗躍していてくれているお陰なのかかもしれない。
なんにせよ、こうして今まで通り過ごしていると、最近の出来事が未だに夢や妄想だったのでは、と思ってしまう。
そんな悪魔を二体従えている、榊原西高校のマドンナ的な龍音寺と、いつの間にか『いとこ』になってしまった事や、魔法を使う奴らに狙われる事になったなんて奇想天外な話、誰にも話すつもりはないし、ましてや家族であるリンに話すわけがない。ポロっと話した途端、お兄ちゃんがとうとう壊れたぁ!」と母親にでも告げ口されたらたまったもんじゃない。
いや、でも待てよ。純粋無垢なリンだったらこの話を信じてくれるかもしれない。何故か分からないが僕には絶対の信頼を寄せているからな。
とまあ、信じようが信じまいが、こんな事を話すつもりはない。好奇心旺盛なリンにこんな事を話せば、絶対に首をつっこんでくるにちがいないからな。これ以上面倒事が増えるのはごめんだ。
「でもさ、お兄ちゃん」
ベッドに寝転がりながら、上目遣いで見つめてくる。やはりこの空間はリンにとっても暑いのか、少し汗で髪が濡れているように見える。
「なんだよ?」
同学年の男子たちは、エンジェルでフェアリーなこの顔にやられてしまっているのだろう。つくづく罪作りなこいつが妹でよかったと思う。さすがに妹に発情する気は毛頭ないからな。
ひとしきり見つめてくると思ったら、にやっと笑う。
「なんだか、楽しそうにも見えたよ」
楽しそうに。誰が? 僕が? 妹の言葉に、頭に大きなクエスチョンマークが浮かび上がったことだろう。
何を見て、そのように感じ取ったのか分からないが、そんな事はない。基本的なインドアな僕に対して、変人との強制的な鬼ごっこをされたり、あれこれ理不尽な命令をされて命からがらピンチをきりぬけたり、心底うんざりする事だってあるくらいだ。
そんな面倒な事をするくらいだったら、一直線で家に帰り、部屋の中でゲームに勤しんだり、小説を読んでいたりする方が何倍も楽で良い。
楽しそう、だなんて思われる様な素振りを見せた覚えはないけれども。
「んーと、リンはね、お兄ちゃんと色々と話したいし、まだまだお兄ちゃん離れなんて全くできないし、したくないと思うよ。最近のお兄ちゃんは、どこか私の知らない遠くに行こうとしてる感じがして、なんだか寂しくなっちゃうんだ。でもね、今のお兄ちゃん泥だらけで家に帰って来たりして、疲れ果ててる顔もしてるんだけど、凄く楽しそうにも見えるんだよね。だから何かあったのかなって」
「……別に、面倒なだけだ」
「ふーん……えへへ、言うと思った。お兄ちゃん何でも面倒臭いで片付けようとするんだもんね。でも、最近なんだか昔のお兄ちゃんを思い出すんだぁ……なんでだろ?」
一度首を傾げて何かを考えている素振りを見せるも、またベッドで転がるのを再開する。ハマりやがったなこいつ。
「昔の僕を思い出す……か」
リンが何故、そんな事を言い出したのかはわからない。昔と今の僕で、何が変わるのか、どこが違うのか、僕にはわからないし、わかりたくもないし、わかるつもりもない。今までも僕は、僕で、僕のままだ。
少しだけ小さな沈黙が通り過ぎたように、リンも、僕も、言葉を発さなかった。リンが何を考えて黙っているのか分からなかったけど、精一杯力の限り鳴き続けるセミに、熱を無駄にかき混ぜる扇風機の音が、やけに耳の中で響く。
「……んーと。あ、そういえばお兄ちゃん、メールの女の子はどうするの?」
おっと、そういえば話がいつの間にか脱線していた。別に脱線したまま戻ってこなくても良い話題ではあったけれど、それこそアンゴラあたりにでも吹っ飛んで帰って来なくてもよかったのだけれど、リンの一言により残念ながら思い出してしまった。
「それに、お兄ちゃんの唯一の友達になるんだからさ」
「は、いや、ちょっとまて」
今、聞き捨てならない言葉を聞いたような気がするが、気のせいだということにしておこうか。そうだなそれが一番だ。
「だってお兄ちゃん、他にお友達いないでしょ?」
すかさず追い打ちをかけてくる。そんな純粋な眼で僕を見るんじゃない。
待て、待つんだリンよ。我が妹よ。血を分けたたった一人の兄妹よ。何の悪意のない曇りなき眼でこちらを見つめてくるが、まるで破壊光線のごとく破壊力がある眼差しだ。
何故だ、一体何の根拠があってそんなデタラメを言うんだ。一体お前は、僕の何を見て、何を触って、何を嗅いで、何を聞いて、何を感じて、何を知って、そんな事を言うのだろうか。実の家族といえど、何の根拠もなく人を陥れるのは、いくら海よりも広い寛大な心を持つ僕でも、出るとこ出てくる事になりかねないぜ。
「まあ、まてリンよ。兄も、こう見えて高校二年生になる男だ。さて、ここで質問だが、リンにとって高校生とはどんなものかな?」
「え、そうだなぁ、いきなりそんな事言われてもなかなか答えに困っちゃうけど」
「そう、そこだ。まだ中学二年生であるリンには、まだ知ることのない、いや知ることのできない、高校生だけが分かり合える交友関係というものがあるのだよ。プライベートではなかなか会うこともなく、学校生活の中で言葉を交わす程度で、一見、そこまで仲が良くないのでは、と思ってしまうかもしれないが、そこには中学生にはまだわからない、幅広い大人の付き合いというものがあるんだ。友達の数だって? そんなものを数える必要すらないのさ」
「へえぇ! 高校生には、まだ私の知らない世界がそんなに広がっているんだぁ! あぁ、私も早く高校生になりたいなぁ!」
眼からキラキラと星空一杯に光り輝かせている。さすがにそろそろ言い訳というよりも、負け犬の遠吠えのようにも思えてきて、このキラキラ光線は、芸達者な妹が、兄の威厳を保たせようとわざわざ演技をしてくれているのではないかと考えてしまう。ただ、一つだけ嘘ではないと言い切れる。僕には『友達』というカテゴリの総数が数えるという程の数ではない。だから、数える必要はないのだ。
だがしかし、そもそも『友達』とは一体何なのだろうか。いや、こんな事を言ってしまったら只の可哀想な奴と同情されるか、もしくはドン引きされるかだろうけど。ではなく、僕が疑問なのは、友達とは一体どこまでが『友達』であり、どこまでが『友達じゃない』なのかだ。別に何かの資格があるわけでもないし、自分が相手の事を友達と思っていても、相手がそこまでの存在ではない、知り合い程度の関係と思っている可能性があるわけだから、なかなか判断が難しい。
例えば、お互いの連絡先を知っているという関係であっても、それが『友達』もしくは『友人』というカテゴリに当てはめるとなると、少し足りないように思える。連絡先くらい何かの流れで、条件反射的に社交辞令のような形で教え合っているのかもしれないし、仕事上の付き合いで、という事もあるだろう。
逆を言えば、僕が分かっていないだけ、それと判断できていないだけで、実は僕にもたくさんの友達がいるのかもしれない。でも、自分が判断できていないのであれば、それを友達として断定するのは難しいだろう。
じゃあ、やはり正々堂々『僕と友達になってください』と言うのがやはり一番ベストになってくるのだろうか。『はい、分かりました、今から私たちは友達です』と返事をもらう事によって、友達という契約が交わされる。そんなわけない。今時、幼稚園児でもなかなか言わない言葉だろう。むしろ死語に近いのかもしれない。
友達。なんて言葉は一般的に広く使われているけれど、実際その定義を理解して使っている人はどれだけいるのだろうか。
「なあ、ちなみに参考程度に聞いてみるけどさ、お前の友達の定義ってどんな感じなんだ」
ふと、気になってしまい質問してしまったが、実の妹にこの質問をすること自体、かなり痛いのではないかと気づく。
特に、その質問に対して何を思うでもなく、素直に受け止めてくれたのかリンは首を傾げる。
「んー、定義は何かって聞かれたら、そこまできっちりしたものはないけれども、お互いに好きな趣味の事とかを楽しく喋れたりしたら、もうそれは友達なのかもしれないね。あ、でも、友達はそんなに多くなくても良いと思うよ! やっぱり何事も量より質だよお兄ちゃん」
何故か、自然と妹に励まされているような気がするのは、気のせいだろうか。きっと、リンにはそんな自覚は全くないんだけれど。これはもう諭されているに近い感覚だ。
「だから、お兄ちゃん。友達は大事にしないといけないよ」
しまいには説教されているような気がしないでもない。
「ああ、わかったよ」
「うんうん、それじゃあ、その子に返事を送らないと」
「だが、断る」
「えぇ!?」
「なあに、ちゃんと返事は送るさ。でも、わざわざ日射病になるリスクを負いながら遊ぶのも、なんのメリットもないじゃないか。そうじゃなくても今日は、今年一番の暑さだなんて言われているんだからさ、少しぐらい日にちをずらしても問題ないだろう」
「まあ、それもそうだけどー、それじゃあいつ遊ぶの?」
「10月を過ぎた頃にでも」
「もうとっくに夏休み終わってるじゃんか!?」
誰がこんな暑い中、外に出てまで化け物退治を見学しなければならないんだ。確かに色々な意味で涼しくなる事はあるかもしれないけど、そんな肝試しは絶対いやだ。
「もう、お兄ちゃん知らないんだからね!」
両頬をぷっくり膨らませながら、部屋を出ていくリン。
ふう、どうしてこんな事態に陥ってしまったのだろうか。
急に「ケータイという機械を買ってみたの」と珍妙な言葉を、これまた珍しくも少しだけ嬉しそうに言ってきたので、つい連絡先を教えてしまったのは一生の不覚だった。
夏休み前、確かに自分から『話くらいなら聞く事ができる』と宣言した手前、連絡先を交換するのは当たり前なのかもしれないけれど、いざ龍音寺からメールがくると、精神的にかなりの負担を感じる。
勿論、流石に無視するわけにはいかないけど、今日は外に出たくないのは間違いない。なら、なんて断りのメールを入れれば良いのかこの夏一番の悩みが正に今ここにきた。
だいたい、急に墓場公園に集合だなんて、何を考えているのだろうか? あそこには何もないから墓場公園だってのに……ん、そういえば、このメールって一体何時頃に届いたんだ。
「……―――げっ!?」
メールが届いた時刻は朝の七時ちょうど。
今の時刻は十二時を回ろうとしていた。
どうしてこんな朝早く連絡してくるんだよ。夏休みになんの予定もなく朝早く起きている男子なんてどこにも存在しないといっても過言じゃないはずだ。
これはやばい、何か非常にやばい気がする。龍音寺から、意味不明なメールがくることだけでも面倒な事が起こる予兆しか感じなかったのに、これは非常にやばい。
「お兄ちゃん!」
「ふぁいぃぃぃぃっ!? ……って驚かすなよ!」
さっそくドアノックを忘れてしまったようだ。流石にさっきの今だ。ここは心を鬼にして、叱る事も兄の威厳に繋がるのではないだろうか。
「ねえ、お兄ちゃん」
「ふう、なあリンよ。仏の顔も三度と言ってだな……」
「お客さん来てるよ?」
「……オキャク、サン?」
背筋に冷たい何かが走りぬけたと同時に、そのまま僕自身も、リンを弾き飛ばして玄関へと走り抜けた。まさか、いや、そんなまさかなぁ。
不安を抑えきれないまま玄関のドアを恐る恐る開ける。
眩しい日差しを後光の如くバックにして、イメージカラーの黒とはあまりにも対照的で、神々しさすら感じさせる純白のワンピース姿に眼が奪われる。
少し大きめな麦わら帽子を浅くかぶった黒髪長髪の美少女は、灼熱を思わせる外の気温が嘘のように涼しげな顔で、笑うでもなく怒るでもなく、そこだけはいつも通りに無機質に喋る。
「―――あら、中山田くん、ごきげんよう」




