プロローグ
そこには、終わりのすべてがそのままで残されている。
ペンキをぶちまけたような分厚い青空、目が眩むほどの照り返し、割れた大地はしんと静まり返って少しの物音もたてない。歩く人影もなく、誘うような匂いも不快な匂いもなく、荒地と、何かが争ったような爪痕だけが残されている。
そこに生き物の呼吸はない。空にも陸にも、浅い海の中にも。
どこへ行っても、陸から陸へ移動しようと、枯れ木の影に生き物はいない。波の立たない海を渡ろうとも、水面の下に生き物はいない。
「看板に書いてあったでしょう、終焉って」
「……外には出ていない、ここにいろといわれた」
「従順なんですね」
虚ろな目をした男と中性的な相貌の女が、そこにはいた。
絵本のような家の扉をあけて、広いホールを過ぎた客間のソファ。
時計は秒針を刻まずそのままにされているが、砂時計の砂が滑る音が微かに部屋に残る。
男はソファの背にもたれたまま、紅茶を口に含んだ女を見つめる。
「まあ、仕事さえしてくれればなんでも構いません」
「……仕事」
そう、と女は蔑むような加虐的な笑みを薄らと浮かべる。
「あなたの仕事は、ここに迷い込んだ何かを保護することです」
男は女を見つめたまま、しばらく何も言わない。その虚ろな瞳に女は薄く笑んだままだった。
「……何か来るのか、こんなところに」
「あり得ないことではないですよ」
「……そうか」
男はゆらゆらと頭を揺らして頷いた。その様子を見送って、すこし不快気な女は目を細める。
「気にならないですか?何故自分がここにいるのか、何故強制されるか」
声の厳しさが強まる。女は睨むように男を見ていた。男は変わらず、虚ろな目で女を見る。
「何故、とは」
「……」
ひくりと女の表情が引きつり、薄い唇が結ばれる。
しばらく砂の滑る音だけが部屋に響いていた。
「何故自分がここにいるのかはわかりますか」
諦めたように、女が口を開く。男は首を傾げた。
「知らないんですか、忘れたんですか」
「……わからない」
「紙は貰いませんでしたか?」
少し声に柔らかさが混じる。
男は背もたれから体を起こし、緩慢な動きで机の下に手を伸ばす。二往復、三往復して男は紙を指先で探り当てる。それを引っ張り出して、そのまま女に手渡した。
「…………これですか?」
今度こそ、女の顔ははっきりと引きつった。
苦々しげな表情のなかに恐れと嫌悪が混ざっていることに、本人も含め誰も気付かなかった。
スケッチブックを切り取ったような凹凸のある紙には、鉛筆の走り描きがある。
あの趣味の悪い絵画はやはり、と1人つぶやいた女は盛大にため息をついた。
「この絵が何かわかりました?」
「さっぱり」
「でしょうね。……やっぱ人選ミスだ」
呆れ顔で首を振り、仕方がないと女は立った。
「では俺から簡単にルールを伝えます。いいですか、よく覚えて……は、無理ですね、あなたは物を覚えていられない」
「俺は馬鹿なのか?」
「頭の問題ではありません。あなたの器の話ですが……まあこれは気にしなくていいでしょう。そう大切なことではない。大切なのは、そう」
--あなたはここから永遠に出てはいけません。
この部屋からも、仕事以外には出ることを禁止します。
ここは滅ぼされた世界。
終焉を迎え、朽ちることすら叶わない世界。
この世界にはあなたしかいません。
しかしあなたも生きているわけではない。
あなたの肉体はこの世界と同じく終わりを迎えた。
あなたは老いることも死ぬこともなく、ずっとこの部屋にいなければいけません。
「……滅ぼされた、世界」
男は噛みしめるようにその言葉を舌でなぞる。
「そこが気になりますか」
女はにやと笑う。男はそれに対して何も答えず、ぼんやりした様子で女を見つめる。
「……ここにいた奴はどうなったんだ?」
「おや、はじめての質問ですね」
そうだっけ、と男はぼやく。
女は笑ったまま芝居掛かった口振りで答える。
「みな、死にました。でももしかすると、どこかで生きているかもしれません。世界とはそういうものですから」
上半分えぐれたビル、焼け跡のある家、乾ききった川の先にそれはある。
赤い屋根、白い壁、茶色い扉、不釣り合いな絵本のような家。
大理石の広いホールを抜けて、シャンデリアの下をくぐった階段を上がれば、きっと誰かは思い当たる。
火に炙られる男、首のない女、熟れたような肉塊の山と、折り重なり倒れた顔の潰れたこども。赤い月の浮かんだ空を見上げる、1人だけの男--
その絵の意味を。




