人間不信イラストレーター・裏-1
――最悪だ、本当に。
黒田のりかは一人、暗い廊下を歩いていた。
まさかあのファイルを置いてくだなんて。みるみる潤んでいく視界をいつものように俯くことで隠しながら、一歩一歩足を進めた。
窓の外は暗闇。覗き見れば遠く離れたところでぽつぽつと星が光っている。グラウンドのライトは既に消灯の時間が過ぎ、風に踊らされる砂がやけに寂しげに目にうつった。
一つの足音。懐中電灯の微かな光り。まるで一人で肝試しをしているようだった。遠く昔の記憶がよみがえる。
永い永い時間を、得体のしれない気味の悪い場所で過ごした。一人増え二人増え、その場所はやがて大切な場所をつくるきっかけとなった。……なのに。
もし誰かがあれを見つけたら。もしあれがすべて現実だと気付かれたら。ああやはり、一時の感情に任せて描くべきではなかったのだ。ああ、それでもなんて。
一枚目は、のりかが心酔する人だった。二枚目は、のりかとミズキの過去。三枚目は――一枚一枚次から次へと溢れるように脳裏に浮かぶ。大切なものだ。正確には、大切な記憶だった。だからこそ、自分の迂闊さが情けなかった。
もし誰かに見られたらと考える。どうしようと泣きながら、もう一人の自分は微かに笑っている。微かな微笑だ。念願がかなったと言わんばかりの、些細な願いがかなったと言わんばかりの微笑。分かっていた。本当は誰かに気付いてほしかったんだと、自分でも気づいていた。わざとらしく学年まで書いちゃって。この馬鹿なミスだって、本当は無意識にその考えが出ちゃってたのかも。
ああ、そうだとしたら、なんて。……そうしたら。そうしたらあの人に申し訳が立たない。……あの日あの時、あたしたちを救ってくれた、あの人に。
だって、あのファイルの中には「事件」と深くかかわりのあるものが何枚かあったのだ。本来描くべきではない物だって、誰にも何も言わずに描いてしまった。それでもあの人は好きにするといいと、そう言ってくれた。お前の絵は、人を惹きこむからと。
何もできない汚れたあたしの手を引いて。絵は好きかと私に尋ねた。薄暗い校舎の中、探し当てた美術室。奇妙な化け物に追われる人たちの悲鳴を聞きながら。あの人は、あたしに微かに笑いかけるのだ。
絵というのは、不思議なものなんだよ。
箱の中を漁って、あの人はぼろぼろの鉛筆を手にとった。何を描いていたのか、今では思い出せないけれど。それはそれは、素晴らしいもので。あたしはあの人の魔法の手をじっと見つめていた。炭が線を描く。その線が形を作る。明暗を、一次元から二次元へ。二次元から、三次元へ。ただの紙から、紙に閉じ込められたひとつの世界へ。
魅入られたのだ、あたしは。それはもういとも簡単に。あの人はあたしの様子をみて、また微かに笑う。差し出された鉛筆を手にとって、真似てみる。不出来なそれをあの人は筋が良いと言ってあたしの頭を撫でる。ぐちゃぐちゃの髪を梳いてくれる。
――そんな、幸せな時間のなかで。
それじゃあ、って。
貴方もその一人になってはくれませんか、って。
馬鹿みたいなこと考えてみたりして。
有り得ないよなぁ。ぼんやりと窓から見えるまっ暗い空を見て小さく笑った。
あの人が描いてしまえば、あたしなんかよりもずっと素敵なものが出来るんだから。だからこそあたしは、必死に描き続けるんだから。
美術室と書かれたプレートが目に入って、のりかは漸く足を止めた。
扉の端に目をやって、赤いランプが点滅しているのを確認する。どうやらカギはしっかりかかっているらしい。
そして肩にかけた鞄に手をやった。
絵を描くのは、所謂ただの「趣味」だ。
あの人の絵に惹かれて、あの人と同じことをしたくてはじめ、のめり込んだ「私的」なもの。
けど、これは違う。
ああでも、ハッカーなんて今どきちょっとベタかな……。




