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SCARLET  作者: 九条 隼
SCARLET:天才たちの話
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人間不信イラストレーター-2


 幼いころは、どうしようもなく天才に憧れていた。

 平々凡々な家庭に生まれ、恵まれていることも自覚せず育った。人並みの能力、人並みの悩み、人並みの生活を手にしていた。そんな中で唯一非凡出会ったのが、友人だった。



 男はぼんやりとキャンパスを見つめていた。頬を滴が伝い、床に染みをつくっていく。それが涙であるということすら気付かずに、男はそれから目が離せなかった。理由は分からない。ただただ、目の前の世界に胸をうたれていた。何かに胸を押されている様な圧迫感。戒めの様にそれは彼の胸を締め付けていく。忘れてはならないのだと、その世界は男をたしなめる。その世界が彼に思い起こさせたのは、言い様のない罪悪感であった。十数年前の記憶がみるみる膨れ上がっていく。男が決して忘れてはならない記憶。幼かった男の、今をつくったきっかけ。



 空を映したかのように碧く澄んだ広大な海。それを背景に幸せそうにほほ笑む凡庸な少年。――否、凡庸なのはその見た目だけだった。

 彼の口が何かを呟く。そして語りかけるように男に首をかしげて、そのまま煙のようにかき消えた。


 男の友人である少年――彼は、天才であった。天才ピアニスト。若干十二歳の若さで世間にその高い能力をしらしめた。彼はいつでも注目の的であった。同年代からの憧憬、大人たちからの誇りを一身にその身に受ける彼は、男の目には輝いて見えた。常に胸を張り人の前を歩く姿を、男はいつも羨ましがっていた。男はクラスメイトの中でも特に彼と仲が良く、授業中に笑いあい注意されることもしばしばあった。帰り道、サッカーに誘うこともよくあった。しかし彼は必ず練習があるからと申し訳なさそうに男に謝った。そうなんだ、と男は謝る彼に首を振った。気にするなと決まってそう言った。それでも気に病む彼に、男はしょうがないよと答えた。お前は天才だからと、コンクールがあるのだからと、そう言うことで彼が救われると男は信じて疑わなかった。

 このころにはすでに歯車が食い違い始めていたのだろう。彼は男の幼い慰めに何かを言いかけ、口を閉ざして儚げに笑った。大人びた、諦めたような笑みだった。

 男は首をかしげ、彼に尋ねた。彼は首を振って、はぐらかした。


 こんどの日曜日。彼は男にそう言った。消え入りそうな声だった。それに続いたことばに、男は満面の笑みを浮かべて彼に抱きついた。

 楽しみにしてるから、と言った男に、彼は笑ってうなずいた。


 

 翌日から、少し彼はふっきれたように見えた。ずっと何かに悩んでいたようだったから、男はそれが嬉しかった。よかったな、と笑いかけると、彼はにこりと笑った。どこか違和感のある笑顔だった。

 その放課後、彼は男を音楽室に連れて行った。黒塗りの見事なピアノの前に座って、彼は白と黒の鍵盤に小さな指を滑らせた。聞いたことのない曲だった。曲の余韻に浸っていた男が我に返った時、彼はピアノから離れ空を見上げていた。あれは何の曲なの、と男は尋ねた。彼はにこりと笑った。

 交響曲第五番。大人びた笑みに、男はそうなんだとしか答えられなかった。



 それからさらに数日。

 彼と男は約束通り、海に遊びに来ていた。神経質そうな彼の母親は、今日だけよと甲高い声で彼に言い聞かせていた。彼は笑ってうなずいた。男の母親が彼の母親に話しかけると、彼女は少し困ったように小さく笑った。男は彼を連れ出して海に走った。小さく練習は良いのかと聞くと、彼は笑った。さもおかしなことを言ったかのように笑い転げる彼が少し異様であった。それでも男は、彼と二人で海を泳いでいつものように無邪気に笑い合った。


 昼を少し過ぎた頃だった。彼は突然姿を消した。はじめは特に気に留めなかった男も、一時間も経てば不安に思い出した。彼の母親に聞くと、彼女は首をかしげた。何かを考え込むように真剣な顔になった男の母親は、男に彼を探してくるように言った。

 迷子になってるのかもね、とごまかすように男の母親はそう言った。男は小さく笑って、しょうがないなあと言って走り出した。


 彼は思いのほかすぐに見つかった。しかし彼の手は真っ赤なペンキでどろどろしていた。

 どうしたの、と男は彼に首をかしげた。彼は無表情のまま彼に両手を広げた。



――あのさ。



 男ははっと我に返った。重たいチャイムの音が校内に響いていた。緋色の光がキャンバスに降り注いでいる。はっと我に返ると、四角い時計の中で短い針が6の数字をさしていた。

 どれだけ考え込んでいたのだろうか。小さくため息をついて、キャンバスに布をかぶせた。



 ふいに、ちいさなノックが耳に届いた。それに答えた彼の目に入ったのは、彼の様に凡庸な生徒だった。もっともその生徒は、彼と性別が違うけれど。

「先生」

「黒田か、どうした?」

 今日も顔色が悪いなと考えながら、うつむきながら言った生徒に笑いかけて見せる。

「あの……絵のことなんですけど、それ、良かったらもらってください」

 男は目を丸くしてその生徒に首をかしげた。絵を見てもらえないだろうかと言われたのは数日前のことだ。男が過去に絵画の勉強をしていたことをどこかからか知った様だった。まさか音楽教師が絵画の勉強をしていたとは思わないだろうに。

「その、良かったら、なんですけど」

 自信なさげにいった生徒に、男は笑った。


 布に隠されたその世界。

 青く穏やかな海と、浜辺を駆け回る二人の少年。少し離れたところで賑わう人々。カラフルなパラソル。海の家。屋台。

 ありふれた、そんな世界。


「この絵は、胸が苦しくなるくらい美しいな」

 男は、ぼやいた。



 広げた両腕。


 鼻をついた臭い。


 肉が見える位深い傷のついた十本の指。


 穏やかに笑う少年。


 彼の紡いだ言葉は――




「難儀なもんだ。……お前たちは」


 その生徒はじっと男を見つめた。どこか荒んだ瞳。幼いころ男が見た、彼の目によく似ていた。



 昔は天才になりたいと思っていた。どうしようもなく天才にあこがれていた。

 何でもかんでも天才だからと少年を称えていた。


 そして、少年の未来を殺した。



 目の前の少女も、同じような葛藤があるのだろうか。天才という重たい重たいレッテルによって、その小さな体を傷つけているのだろうか。

 そうだとしたら、と男は手のひらを握り締めた。




「なあ、黒田。お前、絵を描くのは好きか」



 昔、無知で愚かだった男が彼に言えなかったこと。


 できなかったこと。



「苦しくなったら、休むことだって必要だ。やりたくなければやらなくてもいい。お前のやりたいようにしなさい」



 義務を感じる必要はないのだと。



 内気な少女に語りかける。


 彼と同じ天才の少女は、真っ直ぐに男を見て、答えた。






――きっと、これが運命だったんだろうなぁ。


 全部を諦めたように笑った少年の様な子供を、出さないように。




 もう全部、どうでもいいんだ!


 男はずっと。




 聞こえた言葉に、男は泣きそうな顔で笑って見せた。

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