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英星王座戦 リアライメント・アーク  作者: 明丸 丹一
第5章 終末星域オムニアーク
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第3話 宇宙記録《ログ》

 ハルトの手は、まだ宙に残っていた。


 伸ばしかけたまま、止まっている。


 指先の向こうには、もう何もない。黒い水も、鎖も、赤い目も消えていた。透明な床の下には、いつものように壊れかけた宇宙が流れているだけだ。


 なのに、耳の奥には声が残っていた。


 俺を、お前の怒りの旗にするな。


 低い声だった。


 荒れているのに、妙に冷めていた。


 少年の声だ。


 船底で鎖を引きずりながら、それでも誰にも膝をつかなかった少年の声。


「ハルト」


 シオンが呼んだ。


 ハルトは、ゆっくりと手を下ろした。


「……今のは」


「第三記録の残響です」


 シオンは、閲覧端末を閉じていた。白い薄膜が、空中で小さく折り畳まれて消える。


 その動きは静かだった。


 けれど、早かった。


 ハルトにもう一度触れさせないためだと、すぐに分かった。


「残響」


「正確には、英星原型化候補の未整理反応です。正式な英星エクススターではありません。星環王座ゾディアック・スローンの配備記録にも、まだ組み込まれていない」


「でも、今、声が」


「聞こえたのでしょうね」


 シオンは否定しなかった。


 それが、かえって怖かった。


 幻聴だと言ってくれた方が、まだ楽だった。新任補助員の感応異常だと処理されれば、ハルトは自分の失敗だけで済ませられた。


 だが、シオンは違うと言わない。


 なら、あれは本当に返ってきた声なのだ。


 黒龍海賊ナギ・カラン。


 王座陥落リアライメントには至らなかった覇王。


 玉座解放アーク・リスタートにも届かなかった少年。


 それでも、鎖を鎖として叫んだ者。


 ハルトは、下ろした手を握った。


 指の腹に、冷たい水の感触が残っている気がした。


「なぜ、触れてはいけなかったんですか」


「危険だからです」


 シオンの答えは短かった。


「彼が、ですか」


「あなたが、です」


 ハルトは黙った。


 シオンは、星環王座の方へ歩く。白い衣の裾に刺繍された星座が、小さくまたたいた。天秤、麦穂、黒龍、蜂巣。そのうち黒龍の線だけが、ほんのわずかに乱れているように見えた。


 シオンは王座の前で止まり、片手を上げた。


 新しい記録膜が開く。


 今度は、再生映像ではなかった。


 台帳のようなものだ。


 薄い光の板に、文字と波形が並んでいる。


 第三記録補助領域。


 対象名、ナギ・カラン。


 分類、覇王ユーサーパー


 接続英星、昇龍ショウリュウ


 王座陥落リアライメント、不成立。


 玉座解放アーク・リスタート、不成立。


 過熱スーパーヒート巻取、不完全。


 戦役後制度変容、確認。


 民間伝承残留、確認。


 英星原型化候補、保留。


 何度見ても、冷たい文字だった。


 ハルトの中に残っているのは、そんなものではない。


 鎖の音。


 湿った船底。


 番号札。


 水桶。


 リタという名を、番号ではなく名として呼んだ少年の声。


 それらが、候補という一語で閉じられている。


「彼は、なぜ正式な英星ではないんですか」


「条件を満たしていません」


「条件」


「王座戦の成否、宇宙記録への定着度、英雄原型としての安定性、再配備時の人格連続性、過熱循環への適合率。いくつもあります」


「でも、星海に刻まれたんですよね」


「候補としては」


「その違いは、誰が決めるんですか」


 シオンは、すぐには答えなかった。


 星環王座の環が、ゆっくり回る。


 遠い宇宙の光が、白い床の下を流れた。赤い星がひとつ、細くなって消えていく。


「星環王座が観測します。裁定鎖秤アストライアが量ります。管理者が記録します」


「本人は」


 ハルトは言った。


「本人は、決めないんですか」


 シオンは、ハルトを見る。


 疲れた目だった。


 その疲れの奥に、わずかな痛みがあった。


「その問いは、もう少し後で扱うべきです」


「今では駄目ですか」


「今のあなたは、問いと願いの区別がついていません」


 ハルトは言葉を失った。


 シオンの声は厳しくない。


 叱責でもない。


 ただ、正確だった。


 その正確さが、胸に刺さった。


「あなたは今、ナギ・カランを知りたいのではありません」


「そんなことは」


「彼を使って、あなたの疑問を確かめようとした」


 ハルトは反論しようとした。


 口が開く。


 だが、言葉が出なかった。


 伸ばしかけた手を思い出した。


 あの時、自分は何をしようとしたのか。


 助けようとしたのか。


 違う。


 呼ぼうとした。


 英星にも主体があるのではないか。


 王座戦は彼らを使っているのではないか。


 その疑問に答えてもらうために。


 黒龍海賊に、こちらを向いてもらおうとした。


 それは、呼び出しだった。


 配備とどこが違う。


 ハルトの喉が、ゆっくりと詰まった。


「……俺は」


 言いかけて、やめる。


 ここで謝るのも違う気がした。


 誰に謝る。


 シオンにか。


 星環王座にか。


 それとも、もう消えた黒い水の奥にいた少年にか。


 ハルトは、拳を握ったまま、床を見た。


 透明な白い石の奥で、小さな宇宙が流れている。銀色の粒の中に、赤く割れた星が混じる。あれらのどこかにも、まだ名を呼ばれていない誰かがいるのだろう。


 呼んでくれと願う者もいる。


 呼ぶなと拒む者もいる。


 その違いを、今のハルトはまだ見分けられない。


「第三記録の詳細を開きます」


 シオンが言った。


 ハルトは顔を上げた。


「ただし、触れないでください」


「はい」


「見るだけです」


「……はい」


 記録膜が広がった。


 船底が映る。


 長くはなかった。


 細切れの映像だった。


 低い天井。湿った板。壁に打たれた鉄鋲。足首の輪。番号札。小さな少女の細い手。年老いた水夫の白髪混じりの顎。薄い粥の器。


 そのどれもが一瞬で過ぎていく。


 ハルトは、前の閲覧よりも少し距離を取っていた。


 記録の中に入り込みすぎないように。


 だが、完全には無理だった。


 首に下がる木札が見えるたび、喉が重くなる。


 ナギの木札は、何度も揺れた。


 走った時。


 倒れた時。


 鎖を引いた時。


 叫んだ時。


 そこに名前はなかった。


 登録番号だけがある。


 船底の人々は、帝国の言葉では保護監督対象だった。登録労働民だった。戦後再配置民だった。


 海賊の言葉では、獲物だった。


 管理者の帳簿では、資産だった。


 誰も奴隷と呼ばない。


 そのせいで、鎖だけが正直だった。


 映像が止まる。


 ナギが、濡れた床に膝をついている。


 足首の輪が短い鎖につながれていた。


 近くで、リタが泣いている。


 帝国兵が迷っている。


 海賊が笑っている。


 奴隷管理者が帳簿を抱えている。


 ナギは、全部を見た。


 違う服。


 違う旗。


 違う言葉。


 同じ目。


「帝国は俺たちを積荷と呼んだ」


 記録の音声が揺れる。


「海賊は俺たちを獲物と呼んだ」


 ハルトは息を止めた。


「どっちも、人間だとは思ってねえ」


 船底の水が、黒く揺れる。


 シオンが、横で小さく息を吐いた。


 その反応に、ハルトは少し驚いた。


 彼女はこの記録を知っているはずだ。何度も見ているはずだ。それでも、ここでは息が動くのか。


 ナギが叫ぶ。


「お前たちの言ってる秩序は、俺たちの鎖だ!」


 世界が軋む。


 赤い冠星紋クラウンが灯る。


 排水の中から、小さな黒い龍魚が現れる。


 昇龍。


 記録膜の端で、過熱値が跳ねる。


 だが、すぐに不安定な波形へ変わった。


 ハルトは表示を見る。


 第一記録のカイは、急上昇した過熱が、零刃の応答とアウレリアとの衝突によって強く巻き取られていた。


 第二記録は、飢え、蜜、種、五行の循環が、長く安定した熱として記録されていた。


 第三記録は違う。


 波形が暴れている。


 鎖を切るたびに跳ね上がり、帝国の秩序に押し戻されるたびに沈む。昇龍が強くなるほど、王座戦そのものが歪んでいく。


「なぜ、こんなに不安定なんですか」


「ナギ・カランの回答が、王座の再構成に届いていなかったからです」


「自由を求めたから?」


「自由だけでは、王座になりません」


 シオンは静かに言った。


「鎖を切ることはできます。海へ出ることもできます。ですが、その先で誰をどこへ運ぶのか。切った鎖の後に、何を結び直すのか。それがなければ、王座は奪えない」


 ハルトは、黒い龍魚を見た。


 昇龍は、鎖に噛みついている。


 小さい。


 しかし、凶暴だった。


 水たまりほどの黒い潮の中で、世界全部に噛みつくつもりで尾を打っている。


「彼には、それがなかった」


「少なくとも、第三記録の時点では」


「だから失敗」


「分類上は」


 ハルトは、もうその言葉に反応しなかった。


 分類上。


 それは必要な言葉なのだろう。


 記録するには、分けなければならない。成功か失敗か。成立か不成立か。巻取可能か不可能か。英星か候補か。安定か不安定か。


 けれど、ナギは分類されるために叫んだのではない。


 リタの鎖へ手が伸びたから叫んだ。


 自分たちが人間として呼ばれなかったから叫んだ。


 その叫びが、王座にならなかったとしても。


 なかったことにはならない。


 記録が進む。


 白冠の女王。


 円卓艦隊。


 サー・アルトリウス。


 黒い潮。


 燃える鎖。


 どれも断片だけだ。


 詳しい戦況は表示されない。今のハルトに必要なのは、戦いの流れではなかった。


 最後に、昇龍が討たれる。


 黒い波が引く。


 ナギは甲板に膝をついている。


 右目の赤い星は、まだ消えていない。


 けれど、王座には届いていない。


 海は広い。


 だが、彼の足首にはまだ鎖の跡がある。


 記録膜が暗転した。


 次に映ったのは、戦役後の港だった。


 人々が小さな声で歌っている。


 節は低い。


 明るくない。


 悲しくもない。


 櫂が水を押すような、同じ音を何度も踏む歌だった。


 歌の中で、登録労働民という言葉は使われていなかった。


 鎖。


 船底。


 黒い龍。


 少年。


 その言葉だけが残っている。


 ハルトは、そこでようやく理解した。


 王座は奪えなかった。


 けれど、言葉は奪い返した。


 柔らかい名で隠されていたものを、鎖と呼び直した。


 それだけでは世界を作れない。


 けれど、それがなければ、世界は変わらない。


 記録膜が閉じた。


 ハルトは、しばらく動けなかった。


「これが、英星原型化候補ですか」


「はい」


「王座戦としては失敗した。でも、使命は残った」


「そのように見ることもできます」


「シオンさんは、どう見ているんですか」


 シオンは、わずかに黙った。


 白い大広間に、星環王座の回転音だけが残る。


 音というほどの音ではない。大きなものが、長すぎる時間をかけて動いている気配だった。


「私は」


 シオンは言った。


「失敗として処理しました」


 ハルトは、彼女を見る。


「処理、したんですか」


「当時は」


 シオンの声は、かすれていない。


 それでも、どこか硬かった。


「王座戦としては、そう記録するしかありませんでした。王座は奪われず、玉座も解放されず、昇龍は討たれ、ナギ・カランは王座の回答者にはならなかった」


「でも」


「はい」


 シオンは、ハルトの言葉を待たずに続けた。


「それでも、記録から削除できませんでした」


 ハルトは息を止める。


「なぜですか」


「消えなかったからです」


 シオンは、星環王座の中に残る黒い龍影を見た。


「王座戦として閉じたあとも、船底の歌が残りました。登録労働民という言葉を使わず、鎖という言葉を残す民間伝承が増えた。港の子どもが、黒い龍の話をした。帝国の記録官が、登録ではなく拘束という語を使った。小さな変化です。王座を奪うほどの力ではない。けれど、消えなかった」


「だから、候補に」


「はい」


 候補。


 保留。


 未整理。


 ハルトには、少しだけその言葉の重さが変わって見えた。


 候補とは、軽い言葉ではない。


 まだ名を与えられていない、ということだ。


 まだ量れない、ということだ。


 まだ、誰かの都合で使っていい存在ではない。


 ハルトは、自分の手を見た。


 さっき、その未整理の存在へ手を伸ばした。


 英星にも主体があるのではないか。


 その証拠が欲しかった。


 自分の疑問を前に進めるために、ナギを呼ぼうとした。


 ――俺を、お前の怒りの旗にするな。


 当然だった。


 ナギは、番号札にされたことへ反逆した。


 積荷にされたことへ反逆した。


 獲物にされたことへ反逆した。


 ならば、ハルトの旗にされることも拒む。


 たとえそれが、英星を救うためというきれいな言葉で包まれていても。


「もう一度、触れてみたいですか」


 シオンが言った。


 ハルトは顔を上げる。


 彼女は責めていなかった。


 ただ、確認している。


 記録補助員としてではなく、ひとりの管理者候補として。


「触れたいです」


 ハルトは正直に答えた。


 シオンの目が、ほんの少しだけ細くなる。


「でも、触れません」


「なぜ」


「今触れたら、また呼ぼうとするからです」


 言って、ハルトは自分の胸を押さえた。


「俺はまだ、彼に聞きたいことがあります。答えてほしいことがあります。でも、それはたぶん、こちらの都合です」


「……」


「だから、触れません」


 シオンは、何も言わなかった。


 だが、星環王座の補助記録に、小さな文字が浮かんだ。


 ハルト・ノア。


 情動残響視認傾向、再確認。


 英星原型化候補への不正接触未遂、警告。


 自己抑制、確認。


 その最後の文字を見て、ハルトは少しだけ苦笑した。


 自己抑制。


 また分類だ。


 けれど今は、その分類が少しだけありがたかった。


 少なくとも、止まれた。


 シオンが記録膜を閉じる。


「今日の閲覧は、ここまでにしましょう」


「まだ業務時間は」


「業務の問題ではありません」


 シオンは、床下の宇宙を見た。


「あなたは、初日に見すぎています」


「見すぎると、どうなりますか」


「数字が嫌いになります」


「それは、悪いことですか」


「悪いことではありません」


 シオンは、静かに答えた。


「ただ、数字を嫌う者は、数字に救われた宇宙も見落とします」


 ハルトは黙った。


 アステラードも、ラウンドグレインも、オルドマーレも、コロニー2020も、記録されていたからここで見られた。


 過熱として整理され、巻き取られ、次の宇宙へ送られたからこそ、救われた場所もあった。


 数字を全部否定すれば、そこも見えなくなる。


 だが、数字だけを見れば、ナギの声が消える。


 ハルトは、足元の床を見た。


 透明な石の奥を、また一つ宇宙が流れていく。


 その光は細い。


 今にも消えそうだった。


 誰かが立つ前に終わる宇宙。


 誰かが叫ぶ前に沈む宇宙。


 王座戦に至らなかった宇宙。


 シオンは、それをずっと見てきたのだろう。


 だから、王座戦を止めろとは言わない。


 ダイナの古い仕組みを壊しきれなかったのも、たぶん同じ理由だ。


 救われた宇宙があるから。


 ハルトは、黒い水の声を思い出す。


 呼ぶな。


 旗にするな。


 そして、床下の消えかけた宇宙を見る。


 誰かを呼ばなければ、何も起きない宇宙もある。


 胸の中に、二つの答えが並んだ。


 どちらも正しい。


 どちらも、ひどく足りない。


「シオンさん」


「はい」


「王座戦は、必ず英星を配備しないと成立しないんですか」


「原則としては」


「原則」


「例外はあります」


 シオンは、少しだけ遠くを見る。


「その宇宙に、すでに英雄原型へ到達しかけている存在がいる場合。王座戦の揺らぎによって、その存在が直接、英星として見出されることがあります」


 ハルトは、すぐに思い出した。


「アウレリア」


「はい」


 第一記録の守護女神。


 都市を守る光。


 そして、外縁区へ矢を向けた女神。


「彼女は外から送られた英星ではありません。アステラードの中で、王座戦に接続され、英星として見出された存在です」


「なら、英星は配備されるだけじゃない」


「そうです」


 シオンは、そこで初めて、少しだけ表情を和らげた。


「だからこそ、あなたの問いは完全な誤りではありません」


 ハルトは、息を呑んだ。


「完全な誤りではない。ただし、危険です」


「はい」


「次に触れる時は、問いと願いを分けてください」


「分けられるでしょうか」


「分けられないなら、触れないことです」


 厳しい。


 けれど、正しい。


 ハルトはうなずいた。


 その時、星環王座の外周がわずかに震えた。


 シオンが振り返る。


 白い大広間の奥、十二の巨大な環のさらに外側に、小さな扉が開いていた。


 扉、と呼ぶには奇妙だった。


 銀色の歯車が噛み合い、白い光の隙間を作っている。そこから、古い機械油の匂いがした。


 この神の世界には似合わない匂いだった。


 ハルトは、思わず眉をひそめる。


「誰か来ます」


「ええ」


 シオンの声が、少しだけ低くなった。


「定期保守です」


「保守?」


「星環王座の基幹部は、私だけでは触れません」


 シオンの衣の裾で、天秤の星座がまたたく。


 それに応えるように、扉の奥から別の星が光った。


 白ではない。


 銀でもない。


 古い銅線のような、鈍い金色。


 シオンは、静かにその名を言った。


「前管理者、ダイナ」


 ハルトは、星環王座を見上げた。


 さっきまで黒い水があった場所とは違う。


 今度は、王座そのものの奥で、何か巨大な発電機が目を覚ますような低い振動が鳴っていた。

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『英星王座戦 リアライメント・アーク』は、守る者と奪う者が、滅びかけた世界の次の秩序を賭けて戦うSFヒーロー連作です。

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