第2話 記録補助員
灰色の空が閉じたあとも、ハルトの指先には熱が残っていた。
白い閲覧膜は、すでに第一記録の再生を終えている。目の前には、星環王座の淡い光だけが浮かんでいた。
表示は静かだった。
継承都市アステラード。
天秤王座。
王座戦第一記録。
過熱発生。
巻取、正常終了。
たったそれだけだった。
あの灰色の空も、金色の女神も、少年の背中で咳をしていた少女も、そこにはもういない。
残っているのは、処理済みの文字列だけだ。
「ハルト」
シオンの声がした。
「はい」
「閲覧を続けられますか」
続けられるか。
聞かれて、ハルトはすぐに答えられなかった。
手は震えていない。呼吸も乱れていない。天上管理補助員としての身体制御は、問題なく働いている。視界の端には、心拍、精神負荷、感応値が小さく並んでいる。
どれも警告域ではなかった。
それなのに、胸の奥だけが落ち着かなかった。
「続けます」
ハルトは答えた。
シオンは、うなずきもせず、次の記録膜を開いた。
五色の麦穂が、白い空間に浮かび上がる。
第二記録。
中世平原大陸ラウンドグレイン。
社稷王座。
はじめに匂いが来た。
乾いた土。
薄い粥。
焦げかけた薪。
ハルトは思わず目を細めた。
閲覧膜の中に、村の広場があった。
大きな鍋が火にかけられている。粥と呼ぶには薄すぎる湯の中で、麦の欠片がわずかに揺れていた。椀を抱えた子どもが、底に残った粒を探している。
記録はすぐに飛んだ。
封印札。
閉じた倉。
鉄の鍵。
麦の匂い。
剣が振られ、封印が裂ける。
倉の扉が開く。
麦袋の山が、暗い倉の奥に積まれていた。
その前で、赤い冠星紋を宿した男が立っている。
ガイ・レン。
ハルトは、名前を読む前に分かった。
男が剣を構えたとき、怒りより先に責任が立っていたからだ。
「背負う」
記録膜の中で、ガイ・レンが言った。
その瞬間、表示が跳ねた。
覇王、簒奪起動。
過熱発生。
英星、軌道接続。
黒金の羽音が降ってくる。
ケーニギン。
黒金の蜂姫は、村の土を踏んだ。
膝はつかない。頭も下げない。けれど、倒れた子どもの前でだけ、距離を取ってしゃがんだ。
「幼きものに、濃い蜜は強すぎますね」
琥珀の蜜が、淡い金色の甘露へ変わる。
子どもの喉が、ほんの少し動く。
母親が泣いた。
その泣き声が、ハルトの耳に残った。
だが、記録はそこで終わらない。
蜂が増える。
倉の梁に止まる。
井戸の縁に止まる。
人の肩には止まらない。
ただ、数えている。
麦袋の数。
鍋の数。
病人の数。
隠された種籾の場所。
救うために。
配るために。
従わせるために。
ハルトの喉が、少し詰まった。
蜜は、救いだった。
それは間違いない。
だが、蜜が垂れた場所には、必ず蜂が来る。蜂が来れば、そこは巣になる。
シオンが静かに言った。
「第二記録は、過熱値が非常に安定していました」
「安定」
「覇王側の救済衝動と、君主側の秩序修復が、同じ対象へ向いていたためです」
記録膜が切り替わる。
五色の義勇兵。
リャン・セイ。
青い冠星紋。
木、火、土、金、水。
五つの柱が、乾いた大地へ立つ。
水車が回る。
種籾が守られる。
粥ではなく、来年の麦が語られる。
ハルトは、そこでようやく息を吐いた。
ガイ・レンは、今日の粥を渡した。
リャン・セイは、来年の種を残そうとした。
どちらも正しい。
どちらも足りない。
だから王座戦になった。
それは分かる。
分かるのに、巻取表示だけを見ると、すべてが一つの熱に見えた。
飢えも。
蜜も。
種も。
王朝の責務も。
ケーニギンの羽音も。
五柱の循環も。
すべて、次の宇宙へ送るための力として整理されていた。
ハルトは、表示から目を離した。
「この熱は」
「はい」
シオンは、先を促すようにこちらを見る。
「どこまでが余剰なんですか」
シオンの薄青の瞳が、わずかに止まった。
「どういう意味ですか」
「宇宙を焼かないために巻き取る。次の宇宙を支えるために使う。それは分かります」
ハルトは、記録膜の奥を見た。
ケーニギンが、蜂の群れを背にして立っている。
彼女の目は、飢えた村を見ていた。
数字ではなく、群れを見ていた。
「でも、あの母親の泣き声も、ケーニギンが甘露を薄めた判断も、リャン・セイが種を食べるなと言った迷いも、同じ熱として扱われています」
「王座戦で発生した過剰な情動と選択圧は、分類上、すべて過熱に含まれます」
「分類上は」
ハルトは、言ってから口を閉じた。
シオンは怒らなかった。
ただ、少しだけ視線を伏せた。
「その疑問は、初期補助員の多くが持ちます」
「では、慣れるんですか」
「慣れる者もいます」
「シオンさんは」
聞いてから、ハルトは失礼だったと思った。
だが、シオンは少しも表情を変えなかった。
「慣れた部分と、慣れなかった部分があります」
それは、答えになっているようで、なっていなかった。
だが、ハルトはそれ以上聞けなかった。
第三記録が開いた。
音が変わる。
麦の擦れる音ではない。
水だ。
暗い水。
船底に溜まった、汚れた水。
波の音ではない。板の隙間で揺れる、小さく濁った水の音だった。
海冠帝国オルドマーレ。
海冠王座。
閲覧膜には、低い天井が映っている。
湿った板。
錆びた鎖。
足首の輪。
番号を書かれた木札。
少年がいた。
ナギ・カラン。
十六歳。
登録労働民。
彼の首にも、札が下がっている。
名ではない。
番号だった。
ハルトは、その札だけを見ていた。
木目の荒い札。端が少し欠けている。濡れた紐が、少年の首筋に貼りついている。
記録は断片だけを見せる。
帝国兵の淡々とした声。
海賊の笑い。
奴隷管理者の帳簿。
積荷。
獲物。
登録番号。
違う言葉が、同じ場所へ落ちていく。
誰も、ナギを人間として呼ばない。
ナギの右目に、赤い星が灯る。
「お前たちの言ってる秩序は、俺たちの鎖だ!」
船底の水が揺れた。
小さな黒い龍魚が、排水の暗がりから現れる。
昇龍。
まだ巨大な龍ではない。
水たまりの中で尾を打つ、小さな影だった。
だが、その小さな影が鎖に噛みついた瞬間、ハルトの背中に寒気が走った。
切れる。
そう思った。
鎖が切れる。
世界のどこかで、何かが切れる。
しかし、表示は冷たかった。
王座陥落、不成立。
玉座解放、不成立。
過熱巻取、不完全。
戦役後制度変容、確認。
民間伝承残留、確認。
英星原型化候補、発生。
ハルトは、表示を何度も読んだ。
不成立。
不完全。
候補。
どの言葉も、ナギの叫びより軽かった。
「彼は、失敗したんですか」
ハルトは聞いた。
シオンはすぐには答えなかった。
黒い龍魚が、記録膜の中でまだ鎖を噛んでいる。
「王座戦としては、成立しきっていません」
「失敗なんですか」
「分類上は」
また、分類上。
ハルトは唇を結んだ。
シオンは続ける。
「ナギ・カランは、王座を奪えませんでした。玉座解放にも至っていない。過熱の巻取効率も低い。君主側の秩序は残り、覇王側の回答は制度として完成しませんでした」
「でも」
ハルトは、番号札を見る。
ナギの喉元で揺れる、小さな木片。
「でも、鎖は鎖として残った」
シオンがこちらを見る。
「はい」
「それまでは、登録労働民だった。保護監督対象だった。戦後再配置民だった」
「はい」
「でも、彼が叫んだあと、その言葉では隠せなくなった」
シオンは、ほんの少しだけ目を細めた。
「よく見ていますね」
「見えてしまいます」
それは、自慢ではなかった。
むしろ、少し苦しかった。
記録膜の中で、ナギはまだ少年だった。
怒りで立っている。
怖くないはずがない。
鎖は重い。
相手は帝国で、海賊で、帳簿で、法で、船そのものだった。
それでも彼は立った。
その記録が、候補という文字で閉じられている。
ハルトには、それが少しだけ許せなかった。
第四記録が開いた。
今度は、白い教室だった。
黒板。
二〇二〇年、十月十二日、月曜日。
今日の目標。
あいさつをしよう。
忘れ物をしない。
手を洗う。
その下で、男の子が泣いていた。
手の甲に、青い絵の具が残っている。
図工でついたものらしい。爪の端まで入り込んで、洗っても落ちなかった色。
子どもは、自分の手を見ている。
「ぼくたちは、本物ですか」
教室が止まる。
担任教師は答えられない。
そこへ、真壁有人が入ってくる。
管理者用の黒いジャケット。
この時代の学校には、いないはずの大人。
有人は、子どもの前で膝をつく。
目線を合わせる。
「分からない」
ハルトは、その答えに息を呑んだ。
管理者なのに。
答えを持っているはずなのに。
有人は断言しなかった。
「でも、今、君が怖いのは本当だ」
男の子の指が、机の端を握る。
青い絵の具が、白い机に少しだけ擦れた。
それだけだった。
たったそれだけの記録だった。
だが、ハルトの中で、第一記録から第三記録までの表示がひとつにつながった。
カイは、ミラの未来を数えなかった都市に反逆した。
ガイ・レンは、飢えた子どもより封印札を優先する倉に反逆した。
ナギは、人を番号に変える鎖に反逆した。
有人は、復元された子どもの恐怖を、ただの保全エラーとして閉じなかった。
そして英星も。
零刃も、ケーニギンも、昇龍も、アウレリアも、五柱も、アルトリウスも。
彼らは記録から再構成され、宇宙ごとに実体化する。
肉体が違う。
出力形式が違う。
同じ本人と言えるのかは、分からない。
けれど。
ハルトは、青い絵の具を見ていた。
男の子の手に残った、昨日の汚れ。
そんなものまで再現されているのなら。
その汚れを怖がる心が、ここにあるのなら。
英星の使命は、ただの機能なのか。
ハルトは、声を出していた。
「シオンさん」
「はい」
「英星は、配備されているんですか」
シオンは答えなかった。
ハルトは続ける。
「それとも、応じているんですか」
白い大広間に、長い沈黙が落ちた。
床の下では、壊れかけた宇宙が静かに流れている。
星環王座の環だけが、音もなく回っていた。
シオンは、しばらくしてから口を開いた。
「その問いは、記録補助員の業務範囲を超えます」
「では、管理者なら答えられますか」
言ってしまった。
ハルトは、自分でも驚いた。
初日だ。
まだ一日目の補助員だ。
上司にぶつける質問ではない。
それでも、もう戻せなかった。
シオンは、ハルトを見ていた。
怒ってはいない。
ただ、疲れた瞳の奥で、何かが小さく揺れていた。
「答えられる日が来るとは限りません」
シオンは言った。
「ですが、答えずに済ませてよい問いでもありません」
その時、ハルトの閲覧端末に、予定外の表示が走った。
第三記録補助領域。
英星原型化候補、微弱応答。
黒龍海賊ナギ・カラン。
白い空間の端で、黒い水音がした。
ハルトは振り返った。
どこにも海はない。
それでも、足元の透明な床の下で、一本の鎖が揺れていた。
ナギの番号札が、暗い水の中で反転する。
表示が、もう一度点滅した。
英星原型化候補、微弱応答。
ハルトは、無意識に手を伸ばしかけた。
シオンの声が鋭くなる。
「触れてはいけません」
ハルトの指が止まる。
黒い水の奥で、赤い目が開いた。
少年の声がした。
「俺を、お前の怒りの旗にするな」
それだけ言って、黒い水は閉じた。
閲覧端末の表示が、すべて消える。
ハルトは、伸ばしかけた手を見た。
指が、震えていた。
今度は、はっきりと。




