第1話 天上の管理者
神の世界は、静かだった。
新人管理者ハルト・ノアは、白い床の上に立っていた。
床、と呼んでいいのかは分からない。
足の下には、石があった。大理石に似ていた。磨かれた白い石。どこまでも続く、継ぎ目のない床。
だが、その奥に星が流れていた。
透明な石の下を、無数の光が通り過ぎていく。小さな銀の粒。赤く割れた星。青く沈む渦。輪の切れた惑星。折れた塔のような都市。砂になった海。凍った麦畑。
それらは、星ではなかった。
宇宙だった。
壊れかけた宇宙が、床の下を静かに流れている。
音はない。
悲鳴もない。
炎もない。
ただ、ひとつ、ひとつ、光が細くなっていく。
消えかけた灯のように。
ハルトは、思わず息を止めていた。
「呼吸は止めなくていいですよ」
声がした。
振り返ると、女が立っていた。
シオン・アステル。
天上管理者。
ハルトが配備された先の上司であり、この終端星域オムニアーク管制層を、もっとも長く維持している者。
年齢は、見た目だけなら二十代の終わりか、三十代の初めに見えた。
銀に近い淡い髪。
星図のような薄青の瞳。
白い長衣。
衣の裾には、無数の小さな星座が刺繍されている。だが、それは飾りではなかった。刺繍に見える線の一本一本が、どこかの宇宙の王座戦記録につながっている。
シオンが一歩動くたび、裾の星がわずかにまたたいた。
美しい人だった。
けれど、ハルトはその美しさより先に、疲れていると思った。
目の下に隈があるわけではない。
姿勢が崩れているわけでもない。
声も澄んでいる。
それでも、どこかがすり減っていた。
長く使われ続けた道具のように。
あるいは、音が鳴らなくなるまで祈られ続けた鐘のように。
「ハルト・ノア。天上管理補助員としての配備を確認しました」
シオンは淡々と言った。
「はい」
ハルトは背筋を伸ばした。
「本日より、星環王座の記録補助と、王座戦の配備前照合を担当します」
「了解しました」
「緊張していますか」
「……少し」
「よいことです」
シオンは、床下の宇宙を見た。
「ここに慣れるのは、あまりよいことではありません」
その言葉の意味を、ハルトは測りかねた。
慣れてはいけない。
それを言ったシオン本人が、誰よりもここに慣れているように見えたからだ。
ハルトは正面を見た。
白い大広間の先に、巨大な輪が浮かんでいる。
星環王座。
それは、玉座ではなかった。
椅子ではない。
王冠でもない。
天球儀でもない。
それらすべてに似ていて、どれとも違っていた。
十二の巨大な環が、互いにずれた角度で回転している。環の内側には、無数の王座の記録が刻まれていた。都市中枢。神殿。艦隊。麦畑。電子街区。海図。灯台。外殻都市。円卓。蜂巣。天秤。黒龍。
星環王座は、世界を支配する王座ではない。
各宇宙の王座を観測し、配備し、記録する王座。
王座戦そのものの、上位管制中枢だった。
その周囲には、いくつもの星座が浮かんでいる。
傾いた天秤の星座。
五色の麦穂の星座。
黒い龍影と白銀の円卓艦隊。
電子街区に張られた黒金の蜂巣。
ハルトは、それらを見上げた。
「これが、記録ですか」
「はい」
シオンが答えた。
「王座戦が成立した宇宙の、主要記録です。あちらが天秤王座。継承都市アステラードの記録」
シオンが指を動かす。
傾いた天秤の星座が、静かに近づいた。
そこに、灰色の空が映った。
空中都市。
外縁区。
金色の女神。
ひとりの少年が、少女を背負って空を見上げている。
映像はすぐに消えた。
「こちらが社稷王座。中世平原大陸ラウンドグレインの記録」
五色の麦穂が光る。
乾いた村。
開かれた倉。
薄い粥。
黒金の蜂姫。
そして赤い星を右目に宿した男。
「こちらが海冠王座。海冠帝国オルドマーレ」
黒い波が広がる。
船底。
鎖。
番号札。
小さな黒い龍魚が、鉄の鎖に噛みつく。
「こちらが懐古王座。追憶仮想都市コロニー2020」
電子街区が灯る。
小学校の教室。
泣いている男の子。
管理室で画面を見る男。
ハルトは、喉の奥が少し詰まるのを感じた。
どれも一瞬だった。
ただの記録片にすぎない。
それでも、何かが伝わってきた。
怒り。
飢え。
恐怖。
守りたいという焦り。
間に合わないかもしれないという痛み。
ハルトは、自分がここに来た意味を思い出した。
壊れた宇宙を救うため。
沈黙しかけた世界に、もう一度、選択肢を届けるため。
英星を配備し、君主と覇王の覚醒を見届け、王座戦を成立させるため。
それは、神の仕事だと思っていた。
だが、いま見たものは、神の仕事というより、人間の叫びに見えた。
「美しいでしょう」
シオンが言った。
ハルトは少し遅れて答えた。
「はい」
「美しいと思えるうちは、大丈夫です」
シオンは、星環王座の方へ歩き出した。
ハルトも続く。
王座へ近づくほど、空気が変わった。
音が増える。
それは声ではない。
風でもない。
無数の宇宙が、かすかに軋む音だった。
どこかで王座が限界を迎えている。
どこかで秩序が人を守れなくなっている。
どこかで反逆が形になる前に消えかけている。
その全部が、細い音になって、星環王座へ集まっている。
シオンは、王座の前で止まった。
透明な盤面がいくつも開く。
そこには、数字と波形と星図が並んでいた。
王座安定率。
秩序保持限界。
現地人覚醒候補。
英星適合率。
過熱予測値。
熱的死進行率。
ハルトの視線が、最後の文字に止まった。
「熱的死……」
「天上管理領域の終端です」
シオンは、特別に怖がらせるような言い方をしなかった。
だからこそ、言葉が重かった。
「過熱の循環が止まれば、多宇宙支援系は沈黙します。支援系が沈黙すれば、壊れた宇宙へ王座を送れない。王座を送れなければ、宇宙は王座戦に至ることすらなく消えていく」
シオンが指を動かす。
床下を流れていた宇宙のひとつが、浮かび上がった。
黒い球だった。
よく見ると、球の表面に街があった。
白い塔。長い橋。水路。森。
だが、すべてが止まっていた。
塔に灯はない。
水路に水はない。
森は灰色だった。
「これは、王座戦に至らなかった宇宙です」
シオンは言った。
「王座は限界を迎えていました。秩序は人を守れず、こぼれた者の怒りも、祈りも、形にならなかった。英星を送るための過熱が足りなかった」
黒い球の中で、街が音もなく崩れた。
炎すら上がらない。
ただ、輪郭が薄くなり、消えた。
「滅亡とは、いつも爆発ではありません」
シオンは言った。
「多くは、こうして静かに終わります」
ハルトは、返事ができなかった。
怖い、と思った。
戦いよりも。
叫びよりも。
誰かが立ち上がることさえないまま終わる静けさが、怖かった。
「だから、私たちは配備します」
シオンの声は静かだった。
「滅びかけた宇宙に、王座を仕込む。王座は古代宇宙では地脈となり、近代宇宙ではネットワークとして発展する。その王座が揺らいだ時、英星を送る。君主と覇王が並び立つ条件を整える。王座戦を成立させる」
「……戦乱を起こす、ということですか」
言ってから、ハルトは少し後悔した。
新任助手が、最初から言う指摘ではなかった。
だが、シオンは怒らなかった。
少しだけ、まばたきをした。
それだけだった。
「誤解しないでください、ハルト」
シオンは、盤面に手を触れた。
いくつもの壊れかけた宇宙が、彼女の周囲に浮かび上がる。
「私たちが戦乱を起こしているわけではありません」
その声は、説明に慣れた声だった。
何度も同じ質問を受け、何度も同じ答えを返してきた声。
「宇宙は、先に壊れています」
ひとつの宇宙が拡大される。
荒れた平原。
閉じた倉。
飢えた村。
誰も倉を開けないまま、子どもが倒れる。
「王座は限界を迎えている。秩序は人を守れなくなっている。怒りは形を持てず、祈りは熱にならない」
別の宇宙。
船底。
鎖。
番号札。
船は進む。
誰も鎖を切らない。
「そこへ、私たちは力を与える」
星環王座の環が、ゆっくりと回る。
黒い宇宙に、一本の光が落ちた。
「英星を配備する。君主が立つ。覇王が立つ。現地人が選ぶ。宇宙そのものが軋み、再配列へ向かう」
映像の中で、閉じていた倉が開いた。
船底の鎖が切れた。
灰色の空に黒い星が落ちた。
「その過程で、宇宙には過剰な熱が発生します」
「過熱……」
「はい」
シオンはうなずいた。
「君主、覇王、英星、現地人。彼らの感情と選択が限界まで高まった時、宇宙の許容量を超えた熱が生じる。放置すれば、その宇宙を焼きます。巻き取らなければ、次の宇宙へ力を送れません」
彼女は、星環王座を見上げた。
「そして循環が止まれば、ここも熱的死へ向かう」
ハルトは、王座を見た。
巨大な環は、静かに回っている。
美しい。
あまりにも美しい。
だが、その美しさが、急に排熱機構のようにも見えた。
「私たちは、奪っているのではありません」
シオンは言った。
「壊れた宇宙に力を与え、その結果生じた過熱を巻き取っている。巻き取った熱で、次の宇宙を支える。そういうシステムです」
正しい。
ハルトは、そう思った。
シオンの説明は正しい。
もし英星が送られなければ、救われなかった宇宙がある。
もし王座戦が起きなければ、立ち上がれなかった者がいる。
過熱を巻き取らなければ、次の宇宙へ力を送れない。
熱的死を避けるには、循環が必要だ。
どこにも、悪意はなかった。
だからこそ、胸の奥に小さな棘が残った。
ハルトは、その棘の名前をまだ知らなかった。
シオンは、盤面をひとつ閉じた。
代わりに、別の記録膜が開く。
天上管理補助員、ハルト・ノア。
配備適性、承認。
記録補助適性、良好。
過熱感応閾値、異常高値。
情動残響視認傾向、顕著。
シオンは、それをすぐに閉じた。
だが、ハルトは最後の二行だけを見ていた。
過熱感応閾値。
情動残響視認傾向。
「今のは」
「あなたの配備記録です」
シオンは淡々と答えた。
「気にする必要はありません。天上管理領域では、壊れた宇宙を正しく見られる者が補助員として選ばれます」
「正しく、ですか」
「はい」
シオンは、ハルトを見た。
「数字の奥に何があるかを、まったく見ない者はここに置けません」
その言葉は、ハルトには少し意外だった。
数字の奥。
シオンは、それを見ていないわけではないのか。
それとも、見たうえで、見ないようになったのか。
ハルトには分からなかった。
「初日の業務に入ります」
シオンは、淡々と告げた。
「指定した第一記録から第四記録までの王座戦、宇宙記録を確認し、過熱巻取履歴と英星再配備履歴を照合してください」
「はい」
「主な確認対象は、継承都市アステラード、中世平原大陸ラウンドグレイン、海冠帝国オルドマーレ、追憶仮想都市コロニー2020」
四つの星座が、ハルトの前に並んだ。
「特に、第三記録の扱いに注意してください」
「第三記録?」
「海冠帝国オルドマーレです」
黒い龍影の星座が、わずかに揺れた。
「王座陥落は不成立。玉座解放も不成立。ですが、戦役後の制度変容と民間伝承から、星海に刻まれた者――英星原型化候補が発生しています」
「英星原型化候補……?」
「後で分かります」
シオンは、それ以上説明しなかった。
ハルトの前に、ひとつの閲覧端末が開く。
端末、といっても、手で持つものではない。星の薄膜が、空中に浮かんでいる。そこに、最初の記録名が表示された。
継承都市アステラード。
天秤王座。
王座戦、第一記録。
ハルトは指先で記録を開いた。
灰色の空が広がった。
古い排熱塔。
交換期限を過ぎた気象膜。
白い煙。
錆びた連絡橋。
その下で、少年が少女を背負っていた。
少女は白い防塵布をかぶり、苦しそうに息をしている。
少年は、焦げたスパナを腰に差して、空を見上げていた。
空には、金色の女神がいた。
女神アウレリア。
守護者。
都市を救う光。
その女神が、外縁区へ弓を向けていた。
端末の端に、管理表示が浮かぶ。
外縁第七区隔離焼却局面。
都市存続率最大化判断。
覇王覚醒候補、カイ・レダ。
過熱予測値、急上昇。
ハルトは、その表示を見た。
それから、もう一度、少年の顔を見た。
彼は怖がっていた。
当たり前だ。
相手は都市を守る女神だった。
自分は外縁区の修理工見習いで、背中には呼吸器の弱い少女がいる。
それでも、彼は空を見上げていた。
端末の音声が再生される。
「未来を守るって言いながら、未来を持てない人間から捨てるのか」
ハルトの指が止まった。
少年の右目に、赤い十字星が灯る。
世界が軋む音がした。
空でもない。
地面でもない。
都市の機械音でもない。
もっと深い場所で、宇宙の骨組みそのものが曲がる音。
覇王、簒奪起動。
そのシステムコールと同時に、端末の端で数値が跳ね上がった。
過熱発生。
巻取準備開始。
ハルトは、数値を見た。
そして、少年の背中の少女を見た。
彼女の名前は、まだ表示されていない。
ただ、咳き込みながら、少年の服を握っている。
ハルトは、小さく息を吸った。
これは、過熱なのか。
まだ、言葉にはしなかった。
だが、胸の奥の棘が、ほんの少しだけ深く刺さった。




