いつかの傷ついた僕へ
「……嫌いだった、記憶?」
彼女は、僕の言葉をなぞるように呟いた。その声は、夕陽の赤に溶けてしまいそうなほど微かだった。
逃げ出したかった。
目の前の鮮やかな色彩をすべて塗り潰して、またあの退屈で安全な灰色の世界に引きこもってしまえば、こんな痛みに怯える必要はない。
なのに、僕の視界は、もう灰色には戻ろうとしなかった。
アスファルトについた手のひらに、ぐっと力を込めて立ち上がる。まだ膝は震えていたけれど、彼女の琥珀色の瞳から視線を逸らすことだけはしなかった。
「行こう」
今度は、僕から手を伸ばした。
彼女の手首を掴み返す。
「あんたが言ったんだろ。放っておかないって」
彼女は一瞬だけ目を見張り、それから、今日一番の、ひどく不器用な歪んだ笑顔を作った。
「……うん。意地でも、放してあげない」
狂ったように鮮やかな夕焼けの中を、僕たちは再び走り出す。
やがて、一つの公園にたどり着いた。
ここなら、話せる。
大丈夫、この子ならと自分に言い聞かせて、記憶と向きあう。
街灯の光が、二人の影をアスファルトの上に長く引き伸ばしていた。
「純粋だったんだと思う」
僕が公園にあるベンチに座ってからぽつりと漏らした言葉は、夜の冷たい空気に溶けていく。
「人を疑うなんて発想すらなかった。言われた言葉を全部本気で受け止めて、信じて、疑いもせずに笑ってたんだ。……だから、裏切られたときのダメージがでかすぎた」
脳裏に蘇るのは、かつての世界の「色」。
温かくて、眩しくて、疑うことすら知らなかったあの頃の景色だ。
「僕が通ってた中学ではクラスごとのカーストみたいなのがあってさ......僕は後から知ったんだけど。……別に、反抗したかったわけじゃないんだ。グループのトップにいた女子は、自分の言葉が絶対だと思ってた。みんなが顔色を窺って、機嫌を取るのが当たり前の世界。……でも僕は、ただ普通に、平等に接しただけだったんだ。上も下も関係なく、一人の人間として」
言葉にするたびに、胸の奥で眠っていた痛みが生々しく蘇る。
「それが、あいつには気に入らなかったんだろうね。自分の思い通りにならない奴が許せなかったんだと思う。だから裏で手を回して、僕を孤立させようとした」
「……平等に接しただけなのに、生意気だって言われたんだ」
彼女が静かに言葉を補う。
「まあ、直接は言われてはなかったけどね」
僕は、視線を落としながら、言葉を続ける。
「そして僕が『一番の味方』だと思ってた奴も、その女子のカーストから弾き出されるのが怖くて……結局、向こう側についた。僕の味方のフリをしながら、裏では僕の悪口を言って、機嫌を取ってたんだよ」
人を疑うことを知らなかったから、誰のことも対等に信じた。
その「純粋な平等さ」が、狭い世界の中ではターゲットにされる理由になってしまった。
「……それで?」
彼女は、繋いだ手に少しだけ力を込めながら先を促す。
「怒りで頭がどうにかなりそうだった。だから……僕も裏切った。彼女たちが隠したがっていた一番不都合な『記録』を、学校中にぶちまけてやったんだ。自爆覚悟で、全部壊してやるつもりで」
僕でもわかる。話している言葉の圧が、やけに重く響く。
「やり返した瞬間、すっと冷めた。正義なんかじゃない。ただの惨めな復讐で、僕自身も相手と同じ……いや、それ以上に最低な裏切り者になっただけだった。……その日だよ。僕の世界から、完全に色が消えたのは」
誰も信じなければ、裏切られることもない。
自分自身が誰かを傷つける「最低な奴」になることもない。
そうやって心に鍵をかけ、灰色の世界に閉じこもっていた。
「……そっか」
僕の顔のほうに向いた彼女の瞳には、陽が沈みかけている公園の街頭の暖色と、琥珀色の強い光が宿っていた。
「純粋に...何も考えず、誰かを信じられるくらい、あんたは優しかったんだね」
「……は?」
思いがけない言葉に、僕は間抜けな声を上げた。
「自分を責める必要なんてないよ。裏切った奴らが一番悪いし、傷ついて暴走したあんたも、ただ人間らしかっただけ。……それに」
彼女はフッと口角を上げると、僕の手首を掴む手にぐっと体重をかけた。
「そんな重くて最悪な過去を背負ってるからこそ、今のあんたがいるんでしょ? 私、今のあんたのこと、嫌いじゃないよ」
夜風が二人の間を吹き抜ける。
頭の奥で鳴っていた耳鳴りは、いつの間にか消えていた。
「行こう。過去の『記録』がどうあれ、今の私はあんたを離さないから」
彼女に引かれ、僕は再び歩き出す。
沈んでしまった陽の代わりに夜の闇に包まれた街の中に、二人分の足音が力強く響き渡っていた。
ご愛読ありがとうございます。
「純粋に誰かを信じていたからこそ、裏切られた時のダメージがでかすぎた」
逃げ場のない狭い世界で、ただフラットに接していただけなのに傷つけられ、灰色の世界に閉じこもってしまった主人公。
今回のエピソードは、彼が自分自身の最悪な過去と醜さをすべて吐き出し、それを彼女がまっすぐに受け止める大切な転換点となりました。
琥珀色の瞳が見つめる先で、二人の世界にどんな色が戻っていくのか。
一気に加速する二人の物語を、これからも楽しんでいただければ幸いです!




