八月二十八日
八月二十八日は二部構成で送るといったな。あれは嘘だ。
八月二十八日
トントンと片足の靴のつま先を勢いよく整えると家のドアを開けた。ただ瞼を閉じて絵のことを考えながら深呼吸を一つして気持ちを落ち着かせる。そろそろ亜悠の絵は完成に近づいている。いい予感がする。
美術室の扉を開けると優香がいつもの後ろの窓際の席で頬杖をついていた。今日は今までよりとても早く来たのに優香はまるで自分の部屋のような雰囲気ですでに作業していた。
「あれ、優香だけいるなんて。今日早くきたのに」
「創太がこんな時間に来るなんて珍しいー。例の絵、大詰めと見た。ふふんー」
例の絵。それはきっと僕が制作に没入している亜悠の絵のことか。見透かされているようで少し戸惑う。
「あ、ああ。そろそろ仕上げに取り掛かれそうでさ」
気を逸らすようなことも言えず、知られたくないようなフリをして僕は視線をずらした。
「夏休みの宿題どんな感じー?」
優香は聞いてくる。
「え、あまりやってないかな」
「夏休みのポスター作りも?」
「そういえばまだやってないや」
「ふーん、普通はポスターが先じゃない?」
「今まで描いてきた絵をどれか一枚選んで提出するからいいよ」
自分の席に着こうとして彼女の絵を盗み見る。う、僕の取り組んでいる絵よりも美しく鮮やかな色使いに一瞬、目を見張った。自分の絵とのあまりのレベルの違いにしょんぼりしてしまう。
「ん、どうしたの?」
優香は不思議そうな顔で僕を見る。やっぱり優香の絵はすごい。席に着きながら一生懸命取り組んできた自分の絵との差に悔しさをこらえきれず握りこぶしをつくった。
二時間後、ちらほらと部員が美術室に出入りするようになった。僕は作業に集中していた。
バスケットゴールにシュートを放つ亜悠の表情は自分でも活き活きと描けて自分でも気に入っている。構図はシュートを放つ手先から上半身の姿。ここまではよくできた。でも、亜悠のゼッケンを描くことをためらった。優香には亜悠の絵だと知られてしまう。それは気恥ずかしい。
水道の蛇口の前に立って筆洗器と筆を洗い終わろうとする頃、後輩の女子部員二人と優香が楽しく話をしていた。それに耳を傾ける。
「好きなおでんの具ってなになに? 私ちくわ!」
「私は大根。味が完全に染みてる大根は最高だよねえー。でもうちのおでんはいまいち味が染みてなくて。先輩は?」
優香は口を開く。
「私は昆布かなー」
「え、昆布ですかー?」
女子部員二人は笑っている。
「あの出汁がでるから美味しいおでんができるからね」
「昆布なんて地味ですよー」
「そうかな。出汁の出たあの味のない昆布。それが私結構好きなんだよねー」
味のない昆布か……。優香らしいかも。
「えー、ちょっとわかんないです」
「やっぱり優香先輩変わってる!」
「出汁とってそれっきりなの?」
「いや、そんなことないですけど」
「先輩、実はおでん占いていうのがあるんですよ」
「ふーん」
「ちくわはクラスの人気者。大根は優しさのある良識人。でも昆布はみんなの引き立て役なんですよ」
「引き立て役かあ」
「一生懸命好きな人を引き立てても相手にはされない、みたいな感じらしいです」
「そういえば、優香先輩て好きな人いるんですか?」
「うん。いるよー」
なんだって。それは僕も気になる。
「え? 誰ですか?」
「私の身近にいる人」
身近にいる人?
「え! 具体的に教えてくださいよおー」
後輩女子部員は食いつく。僕もそんな話をする優香を見やる。
「でも、その人は他に好きな人がいるみたい。だから私はどうしたらいいかわからないの。でも、おでんの昆布の様にその人を引き立てることができるているだけでも、いいかなー。なんてねっ」
「えー! 先輩片思いってやつですね! お相手誰なんです?」
その相手は誰なんだ。耳を澄まして優香を見る。
「えっとねー……。それは」
そう言う優香と偶然目が合った。優香は僕をみつめ、僕も優香をみつめた。その瞬間、優香は動揺したようにすぐに視線を変えた。
「いやー、それは教えられないって! ばれちゃうばれちゃう!」
優香はそう言って自分の席に着く。まさか、優香。身近にいる好きな人って……。
僕も優香の前の自分の席について作業にもどる。けれど、さっきの優香の言ってることがやけに気になる……。
一時間後、まだ優香のことが気になる。彼女は後ろの席で作業している。僕は優香に話しかけることにした。
「優香」
「なに?」
「ちょっと一階で休もうよ」
優香と一階の渡り廊下の真ん中で一緒に座り込む。特にお互い話をしないままただ僕達の間に沈黙が流れる。優香の身近にいる好きな人って誰なんだろう。そんなことないけど、もしかして……。僕は思い切って優香に聞いてみた。
「優香、さっきの後輩との話聞いてたんだけどさ」
「うん……」
「優香ってどんな人が好きなの?」
「そりゃー、スポーツ万能で頭のいいかっこいい人だよ!」
「そうなの?」
「うん、そうだけど?」
「そういう人が好きなんだ。その人って他に好きな人がいるんだ」
「そうだよっ! 色んな女子達が狙ってるんだもん。私なんかがその人の眼中には入ってないよ」
「同じクラスの人?」
「ちがうよー」
「じゃあ同学年?」
「そうだよ」
「スポーツ万能で頭のいいやつでかっこいい人ていったら光村とか?」
「そ、そう! 光村くんだよ!」
「……本当に?」
「それは……創太じゃないことは確かだから!」
「そっか」
やっぱり僕の思い過ごしかもしれないな。
「でもね」
優香は僕に顔を背けて言う。
「光村くんほどじゃなくても創太も私の中で二番目に好きかなー、なんてね」
優香はひねくれているのか、本気なのか、どちらともつかない言い方をする。それ、どういう意味なんだろう。
「でもライクの方だからね! 光村くんはラブだけど創太はライクだからっ」
「ライクの方だけでも嬉しいよ。優香にそう思ってもらえるなんて……正直嬉しいよ」
「創太、あの絵完成しそう?」
「うん。もう少しで完成だよ」
「あの絵、亜悠さんなんでしょ?」
やっぱり優香には分かっていたんだ。やっぱり……。
「そうだよ。頑張って今年の夏休みには完成させたいんだ」
「もっと自信もちなよ。創太は思うままに絵を描けばいいんだよ。でもさ」
優香はそう言うと黙り込む。
「亜悠さんの絵が描けたら、私も描いてよ」
「優香……」
優香は立ち上がり空を見上げる。この渡り廊下からみえる青空はどこまでも澄み渡る雲一つない青空だった。
「なーんちゃってね! しーらないっ」
優香は走って美術室の特別校舎に戻っていった。
僕だって優香のことは好きだよ。でも亜悠のことを思うと……。少しわからなくなってくる。
美術室に戻ると優香は作業に戻っていた。僕の作業は亜悠のゼッケンを描けば終わりだけど、家に帰って仕上げよう。
夕刻のチャイムはすでに鳴っている。あれから持続していた集中力はとっくに切れ、ただ時間が流れていた。
帰ろうとして亜悠を描いた絵を持ち机の横にかかっているカバンをしょって立つ。今日は疲れた。帰ろう。
階段を下りて渡り廊下を歩いていると向こうから声が聞こえる。光村と鳥谷だった。二人がこちらに歩いてくる。僕は何もない様子を装いすれ違おうとした。そのときだった。カバンを掴まれ僕は胸ぐらを思いきり掴まれた! な、なんだ!?
「おいおまえ、小柳とどういう関係なんだ!? ええ!?」
一体何のことだ!?
鳥谷は僕の胸ぐらを掴んだままニタアと薄ら笑いをうかべ迫ってくる。
「光村の彼女を奪おうとか思ってんじゃねえぞ!」
「ぐっ! ぐふっ!」
壁まで突き飛ばされ地面に這いつくばるとそのまま鳥谷の蹴りを二、三発頭に直撃を食らった。
奴の目は恍惚に満ちていた。人を傷つけるのが快感な殺人鬼のそれだ。それを見た瞬間に危機を察知した。逃げなければ!
「おい。逃げんじゃねえよ。話は最後まで聞いてけや。おい光村」
後ろで様子を見ていた光村が詰め寄り、鳥谷は僕を無理やり立たせると光村の後ろに佇んだ。光村は静かな口調で喋りだした。
「……おい。創太。おまえ大会の時、亜悠と話していたよな。亜悠とどういう関係なんだ?」
光村はそのことを根に持っていた。嫉妬深いやつなのかもしれない。
「どういうことだと亜悠に問い詰めたら、どうやらお前と亜悠の関係はただの友達じゃあないみたいだな」
ただの友達じゃないって? それは一体どういうことだ?
「あいつ、しばらく黙ったまま、心の通う大事な関係だと言って……。あれ以来深くは訊かなかったけど、おまえにいつかこのこと尋ねようと思ってな」
光村が言ってきたことは思いもしないことだった。光村と亜悠はきっと恋人のような関係だと思っていたが亜悠と話したあの後、そんな簡単な流れではなかったようだ。亜悠は、「だいじょーぶ!」なんて言ってたのに……。
「なあ、どうなんだ。おまえ、あいつのこと好きなのか?」
沈黙が流れる。僕は口を開いて言った。
「……だったらなんだよ」
「そうか」
「おい光村、こいつ殺してやろうかあ? へへへ」
光村は鳥谷を制し言ってきた。
「はっきり言っておくけど、亜悠と俺は昔からの幼馴染だ。だからおまえは邪魔だ。でもおまえだってプライドが許さないだろ。だから勝負しようぜ」
「……勝負?」
「亜悠にはこのことは黙っといてやる。明日から俺が亜悠をとるかおまえが亜悠をとるか。あとはわかるな?」
男同士の勝負ということか。光村がこんな冷静な態度でくるとは思わなかった。僕だって亜悠は好きだ。だったら負けるわけにはいかない。
「……ああ」
光村は頷く僕に笑ったかと思うと、その場から立ち去って行った。
「よかったなあああ!」
「ぐわっ!」
鳥谷の飛び蹴りがわき腹にえぐるように当たると、僕はその場に倒れた。
「ヒャ-ハハハハハ!」
その時、抱えていた亜悠を描いた絵の画用紙が破れ、鳥谷の足元に落ちた。
「ぐっ、絵が!」
その絵を大切に抱えようとした瞬間、鳥谷の足で画用紙は思いきり踏まれる。
「おまえ、これ何の絵だ? 下手すぎてなんの価値もねえくだらねえ絵だなあ!」
「……そんなことない」
「んあ?」
「それは僕が描いた中で一番大事な絵だ」
「ふーん。あっそ。そんな絵だったら余計壊したくなったぜ! ヒャッハー!」
鳥谷は踏んでいた絵を地面に足でこすりつける。
「もう一度描き直せや!」
「やめろ」
「うーん?」
「おいてめえ! やめろっていってんだろ!」
怒声を飛ばしたのは僕だった。たじろぐ鳥谷におもいきりつっかかる。
「ハ、ハ! こんな絵がなんだっていうんだよ……。そらよ!」
絵は何回も踏みしだかれ、グチャグチャになる。
「やめろおおおおおおおおおおお!」
心にたまった怒りをぶちまけるように、鳥谷の顔面をおもいきり殴打した。
「ヒギャア! いてえなああてめええええ!」
僕はもうどうなってもいい。これだけは……これだけは許せない! 全身に殺気がはしる。
「ヒャ! ヒャハハハハ! けっ!」
ペッと唾を絵にかけると鳥谷は一目散に走って行った。
もう亜悠を描いた絵は原形をとどめてはいない。絵の中の亜悠の顔は無残にも歪んでいた。
……くそう! くそうくそうくそう! 僕ってやつは……なんて弱いんだ!
「くそう! うぅ……っうわああああああ」
メチャクチャになって地面に落ちている絵を見て、泣いた。とにかく泣いた。
校内の男子生徒、女子生徒達が見ていたけれど、我慢できなかった。
八月三十日は亜悠の誕生日だけど、結局この日に絵が仕上がることはなかった。家に帰ってからまた一から描こうとして筆を握ったけれどできなかった。だめだ、間に合わない。部屋の壁に背中をあずけると崩れた姿勢でうなだれる。ため息が一つもれた。絵を描く情熱はもうない。亜悠を描けない。そして光村との亜悠の恋の戦いにも勝てる気がしない。あいつは普通の人とは違う。
視線はぼんやり部屋を漂う。カーテンがかかったわずかな夕日のオレンジ色が目に差し込む。一匹のセミの寂しい鳴き声が外から聴こえた。
次の話は八月三十日




