(3)
「ルナス、ラグナロク様の朝の勤めの内容は聞いておったろう? 黒の王はなんと仰せだった?」
衛兵訓練所で剣術を教えている最中だった百卒長補佐官であるルナスに、ラヌーン侯が近づき、耳元で囁いた。
ルナスはさっと手を上げて訓練をやめさせると、ラヌーンとその場を離れた。兵舎に入り、自室に案内した。粗末な石造りの彼の部屋には、絨毯が敷いてあり、部屋は寝室と居間に分かれている。
居間の中央にあるテーブルにグラスを置き、ディーパ酒――蒸留酒――を注いだ。グラスに琥珀色の液体が注がれる。
ルナスはいかにも口の重そうな青年であった。腕が立ち、次期百卒長にと期待される男だ。
「はい、聞いておりました。それが、わたしの仕事ですので……。王の話したあることで黒の王がご立腹なされました。それで、ホスマークのアスランという少年をすべて捉えて連れてこよ、と……仰せられました」
「なんと……無謀な。干すマークにアスランという名の少年がなん人いると思っているのだ……。ええい、ラグナロク様に変わって、命ずるぞ。記せ! ”ホスマーク、ミトゥーにおけるアスランなる少年は全て捉え、ラスグーに連行せよ”とな。わしはいくらなんでも、ホスマーク全土のにいるアスランという名の少年をすべて連れてこようとは思わぬ。居間すぐ、50人兵を率いて、アスランなる少年を捕らえてくるのだ。明日までにしろ。絶対にラグナロク様の成人の日に重なってはならぬ」
ルナスは急いで羊皮紙に言われたことを記すと、ラヌーン候の陰を求めた後、それを丸めた。
「かしこまりました。明後日までには終わらせましょう。失礼致します」
彼はラヌーンに一礼すると、書状を持って部屋を出た。ラヌーンは木戸から外を覗き、ルナスの様子をみとめると、口元にニヒルな笑みを浮かべた。
「黒の王、不貞の女から生まれた娘のためにどこまで狂うつもりなのだ。アスランという少年全員を殺すつもりか……。
ラグナロクも、もうすぐ成人する。あれの真の名を知るのはわたしだ。この国とあの女を手に入れるために……。これで小娘に奪われた念願の王座を手にすることができる。黒の王、おまえがどれほどのものか知らぬが、人目に触れられぬ体であることは間違いない。きっと、ガダル・マズの黒い水に沈めてやるわ」
ラヌーンは残忍な光を目に宿し、マントを翻して部屋から出て行った。
だれもいなくなった部屋は、不思議なほど鎮まり、沈んだ色で内部を満たしている。石造りのせいか、冷たい空気がひんやりと流れてき、初夏の暑さをしばし忘れさせるほどだった。
部屋のある一角だけ、不穏な空気に満ちている。ラヌーンが出て行った扉の右手前にふたつの奇妙なものが浮いている。
それは目玉だった。
目玉がふたつ、宙に浮いているのだ!
――抜け目のない男だ……
だが、ラグナロクはだれにもわたさんわ。
あの女とは似ても似つかぬ、気性の女だということはわたしは知っている……
わたしだけが理解できる。
黒の王の巫女になってしまう前に、真の名を知るのはわたしだ。
古の王の鍵を握る女を手にするまでは諦めぬ。
ラスグーの王冠謎、おまけに過ぎぬ。
ラヌーン、2日後が楽しみだな
ぼんやりと浮き上がった姿の主は、マズラルだった。彼は不気味な笑いを口から漏らすと、姿を再び消してしまった。部屋は、何事もなかったかのように静けさを取り戻した。
ラグナロクは太陽の光さえ差し込んでこない、ゴルドの森をさまよっていた。しかし、迷っているわけではない。道標を探しながら目的地へ急いでいた。
彼女は前にも何度も入っている。
彼女が王となった夜だ。
初めての逃亡は、彼女にとって革命的で刺激的だった。結局、マズラルに見つかってしまったが。
彼女は暗い森の中を無言で進んでいく。
ゴルドの森はラスグーに唯一ある森だ。しかし、この森には魔法はなかった。皆、口にするのも忌む森なのだ。
この森には生気がなかった。生き物の気配がまるでないのだ。木々は形容しがたいほど黒かった。この森は不吉の森と言われていた。
まるで、ガダル・マズの化身と言ってもいいほどだ。
魔法が無いために、『ラ』という聖なる冠も持っていない。
そういう森に、ラグナロクは恐れもせずに入っていくのだ。彼女は森を恐れていなかった。誰もが恐れる森を10歳の時から恐れていなかったのだから、彼女の勇気は相当なものだろう。
彼女が森に入って時間が大分過ぎた頃、森の木々が開けた場所に出た。その広場には神殿があった。ずいぶんと月日を経たもので、支柱と欠けた彫像だけしかなかった。支柱にはグルグルと蔦が巻き付いている。彫刻は半裸の女性だった。
月の女神ルナである。
ラグナロクは彫像の前に跪いた。
「わが守護神、ルナよ。二日後に控えるわたしの成人の儀式がすぎるまで姿をくらますことをお許し下さい。それまであなたのご加護を!」
森は怖くなかったが、彼女は動揺していた。味方がいないと確信している。自分の回りにいる者達が成人の日を待ち望み、自分の新名を手に入れたがっている。祈りを込めて組み合わせた両手が白くなるほど、力を込めた。




