(4)
どこへ行くかは決めていない。一刻もはやくラスグーから離れたかった。
彼女は薄い衣を脱ぎ、魔法で出した丈夫な革の衣服を身につけた。貴金属は全て革袋へ入れて腰に下げた。
彼女はおもむろにルーンを唱えた。うっすらと彼女の姿が消えかかる。あと少しで消えてしまうという時、バシッと鋭い音が広場に響き渡った。強風が吹き抜け、空がどんよりと曇り、暗雲が立ち込めた。
ルーンを邪魔されて、元の姿に戻ったラグナロクは青ざめる。
「なにが……」
と言いかけた彼女は突風に押し倒された。その時、彼女は初めて気づいた。背後に隅をこぼしたような暗闇が、ぽっかりとその口を開き浮かんでいた。
彼女は金縛りにあったようにその暗闇を見つめた。暗闇は徐々に形を持ち始め黒い靄となった。黒い靄は彼女の様子にますます勢いづき、ラグナロクを包み込むまでに大きくなった。
それはまるで生き物のようであった。
瞬間――!
宙に浮いた黒い靄から、茶色い骨ばった一本の腕が飛び出した。節だった長い指を伸ばす。倒れたラグナロクの腕を掴んだ。
「あ!!」
ラグナロクは驚き、その腕を引き剥がそうとした。しかし、手はしっかと腕を掴んで離さない。
「……姫よ、姫よ。どこへ行くつもりだ。一人で国を捨てて、どこへ行くのだ」
重くしわがれたその声は、闇の底から這い上がってくるようだった。
「は、離して!!」
ラグナロクは必死でもがいた。どうにかしてその手を剥がそうと、爪を立てて茶色い腕の皮がむけるほど引っ掻いた。
しかし、声は痛みを全く感じていないのか、先ほどと変わらぬ冷たい声音で話しかけてくる。
「ひm呂……わたしをおいて……わたしを捨てるのか。わたしの片割れよ……」
「お、お父様!?」
声の放った言葉を聞いたラグナロクの顔が、恐怖のあまり引き攣った。
腕は恐ろしい力で、ラグナロクを抱きしめた。
闇の声は冷たく凍りきっていたが、興奮に震えてもいた。黒の王の声は震える声で訴えるごとに、その腕の力を強めていった。
「おお、わたしの分身。おまえはわたしから逃れられはせぬ。わたしは決しておまえを見逃さない。
二日後にはわたしの花嫁となるのだ。穢れなきおまえを、わたしが穢すのだ。
ルナから、地獄の王子ラサフェイの妻、リリスになるのも一興ではないか。
おまえはわたしの娘ではないのだ。
おまえの母は淫婦だった。愛してやったのに、恩を忘れおって……。
姫よ、可愛い子。おまえは違う。恐れることなどない。わたしにその身を任せるのだ。成人の日まで、わたしのそばで過ごすのだ。
おまえがわたしから逃げるならば、時をまたずにおまえを汚さねばならなくなる。全ては成人してからだ。おまえを完全に手に入れることができるのは……」
黒の王は忌むべき言葉を発し、ラグナロクを闇に引き寄せた。
ラグナロクは恐怖のあまり声が出ず、目のまえに広がる暗い穴を見つめるしかできなかった。
ズルズルという地をはうものの音が闇から響き、黒の王の顔がチラリと見えた。
……赤く燃える瞳が、闇のなかに浮かんでいた。黄緑色のぬめりとした肌が、皺寄った顔に張り付いている。まるで蛇のように。
その顔が、彼女に接吻を迫るようにせり出してきた。
「いやああー!」
彼女の今まで保っていた理性のタガが外れた。細い喉から絶叫がほとばしる。
「いやあ! 離して! 離してぇ! 助けて、お母様! 誰か、誰か!! いやよ! いやああ!!」
彼女が喉を振り絞って出した声はこれで二度目だった。一度目は黒の王の真の姿を見た時に発せられた。
しかし、黒の王は彼女に何もできなかった。闇の力が弾けて分散してしまうほどの力が、黒の王に向かって放たれたからだ。
「黒の王、なんと見苦しいことでしょう。実の娘に……」
黒い靄を弾き飛ばしたのは、若い男だった。彼はルナの彫像の陰から姿を現した。
黒褐色の長髪をさらりと流し、瞳は薄い水色。その細面長の面は清廉なほどに美しかった。
「お、おまえはマルロス……。しかし……アヤツはとうに百を越しているはずだ……。16年前に姿を消したくせに、なぜ今ごろになって現れた!」
「王よ、いまごろとは……。16年前、わたしを殺そうとしたのはあなたですぞ。誰よりもあなたに従ってきたものを……。ご自分の娘を犠牲にしようとなさっておられる。王よ、全てを悪魔に引き渡すおつもりですか」
「ええい! わたしを殺そうとしたのは貴様の方。
わたしを裏切ったのは、だれか? 暗殺者はおまえだ。
この女は罪から生まれた、わたしだけの古の王だ! この女は断じてわたしの娘ではない! あの不貞の女とおまえとの不実の子だ。
わたしは見たのだ! わたしとあの女から生まれるはずのない悪魔の子をな!
わたしに似た子こそ、わたしに与えられた古の王なのだ!
選ばれたのは、このわたしだ! この女を私のものにしてしまえば、さらなる栄光と神をも超える命……不老不死を得ることができるのだ! この世で神にもなれるのはわたしのみだ!」
若者は嘆息して頭を振った。
「なんと愚かなことか……。王よ、真実を見なさい。愛を信じればよかったのに! あなたが不吉だと呼ばわった真実の子は、いずれあなたを滅ぼすでしょう。全てはあの子の中にあるのです」
「あの悪魔が? 生きておった? しかし、そやつにわたしは殺せぬ。2日のうちにわたしを殺せるはずがない」
「ああ、愚かなのはあなたです。さぁ、ラグナロクを放しなさい。その娘ですら、本来ならばあなたを消せるほどなのに! 過信しすぎないことです、黒の王」
マルロスはルーンを唱え、指で宙に文字を描き、黒の王に向かって放った。すると、なにもなかった空中からまばゆい光が発生し、黒の王に一斉に飛びかかった。
「ぎゃあ!」
闇は完全に場を失い、黒の王は姿を消してしまった。
気が遠のいていたラグナロクの耳に、彼らの話した言葉の半分も聞こえてはいなかった。
「目覚めなさい、姫よ。ここからすぐに出るのです。あなたを追うものは黒の王だけではない。
古の王が目覚めるのは、あなたにかかっている……。すでに運命は動き始めている……。
行きなさい。そして、見つけるのです。あなたのローバーを。正義と邪悪に分かつ前のローバーを見つけるのです。彼を悪にするか、正義とするかはあなた次第なのです。
さぁ、それらの分岐点、ミトゥーへ!」
マルロスは右の片手でラグナロクをだき、囁いた。
「大賢人、わたしは古の王ではないのですか? わたしのローバーとはだれなのですか? わたし次第とはどういう意味なのです?」
ラグナロクは両手を伸ばして、マルロスの左腕を掴んだ。彼はじっと彼女を見つめた。
「全てはミトゥーに。わたしの愛しい物が答えです。急ぐのです!」
マルロスはラグナロクから離れ、黒々とした木々の間に溶けこむようにして消えていった。
ラグナロクは意を決し、ルーンを唱えた。
太陽はやっと南中に掛かり、だれもいなくなった広場に、その眩しい光を差していた。




