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009話 錬金術師ミリア

 夕暮れの学院。

 石造りの校舎を茜色の光が照らしていた。


 アベルは人目を避けるように渡り廊下を歩く。

 左腕を流れる血はすでに止まっている。

 しかし傷口の周囲は紫色へと変色し始め、じわじわと熱を帯びていた。


「……やっぱり早いな。」


 ゲームの追加シナリオで登場した《黒蛇の毒》。

 致死性は高くない。

 だが普通の解毒薬では完全には消えず、数週間にわたって身体能力を著しく低下させる厄介な毒だ。


 攻略情報を思い返す。

(市販薬じゃ駄目。)

(学院医務室の薬でも足りない。)


 必要なのは、高純度解毒ポーション。

 そして、この時期にそれを作れる人物は一人しかいない。


 ミリア。

 錬金術科に所属する少女でゲームのヒロインの1人だった。



 学院の外れにある錬金術棟。

 夕方ともなれば人影はほとんどない。

 ガラス窓から橙色の光が漏れている部屋が一つだけあった。


 コンコン。


「失礼します。」


 中から慌てた声が返ってくる。


「は、はいっ!」


 扉を開けると、部屋中に薬草の香りが広がっていた。棚という棚には瓶が並び、机の上には試験管や乳鉢が散乱している。その中央で、小柄な少女が大慌てで何かを隠そうとしていた。


「あっ!」


 ガシャン。


「きゃあ!」


 試験管が一本転がる。

 アベルは慌てて拾い上げた。


「大丈夫?」


「す、すみません!」


 少女は真っ赤になって頭を下げる。

 黒髪を肩まで伸ばし、大きな丸眼鏡を掛けている。


 図書委員でもやっていそうな真面目な優等生を彷彿とさせる整った顔立ち。だが、実はかなりのドジっ子属性をもつ学院でも有名な錬金術オタク。


 ミリア・アルケミアだった。



「えっと……。」


 ミリアは恐る恐る尋ねる。


「何かご用でしょうか?」


「ちょっと見てもらいたい傷があるんだ。」


 そう言って袖をまくる。紫色へ変色した傷口を見た瞬間、ミリアの表情が変わった。


「えっ……!」


 眼鏡を押し上げる。

 ぐっと顔を近づける。


「こ、これ……。」


 さらに近付く。


「《黒蛇》ですか!?」

「知ってるの?」

「知ってるどころじゃありません!」


 彼女の目が輝いた。


「これ、文献にしか残っていない毒ですよ! 現物なんて初めて見ました!」


「……。」


 アベルは苦笑した。


(やっぱりこうなるか。)


 ゲームでもミリアは未知の薬や毒を見ると周りが見えなくなる性格だった。


「ど、どこで受けたんですか!?」

「ちょっと野盗に。」

「野盗が使う毒じゃありません!」


 即答だった。


「これ、高位魔物を素材にした高級品ですよ!」


 ミリアは腕を組み、ぶつぶつと考え込む。


「流通経路が分からない……。」

「えっと。」

「あっ、ごめんなさい!」


 ようやく我に返る。


「治療でした!」



 ミリアは棚の奥から一本の青い小瓶を取り出した。

 しかし途中で動きが止まる。


「……。」

「どうした?」

「実は。」


 申し訳なさそうに俯く。


「これ私が作った試作品なんです。ちゃんと効くかどうかの検証も終わってなくて…」


「大丈夫だよ。」

「え?」

「君が作ったのなら。」


 ミリアは驚いたようにアベルを見つめた。


「普通は疑いますよ?」

「効果は期待していいんだろ?」

「そ、それはそうですけど……。」

「だったら信用する。」


 その一言だった。


 学院でミリアは変わり者扱いされていた。研究ばかりしている。役に立つか分からない薬ばかり作っている。そんな陰口を何度も聞いてきた。だから…自分の薬を何の躊躇もなく信じる人間がいるとは思わなかった。


「……ありがとうございます。」


 小さく頭を下げる。



 薬液を傷口へ垂らす。


 シュワッ。


 紫色がみるみる薄れていく。


「やっぱり。」


 ミリアがほっと息をついた。


「成功してた……。」

「だから大丈夫って言ったろ。」

「はい。」


 恥ずかしそうに笑う。


「高レベル魔物の毒に適応可能な高純度解毒薬の完成です。」

「すごいな。」


 アベルは素直に感心した。


「こんな時期にこんなの作れる人、学院にいないよ。」


 その言葉にミリアは照れくさそうに頬を掻く。


「えへへ……。ん?"こんな時期"にって?」

「あ、いや。こっちの話。とにかくありがとう。助かった。」

「い、いえ!」


 慌てて首を振る。


「こちらこそ貴重な毒を見せてもらえて……じゃなくて!」


 二人とも思わず笑ってしまう。


 アベルが帰ろうとすると、ミリアが小さく呼び止めた。


「あの。」

「うん?」

「もし……。」


 少し迷ってから言葉を続ける。


「また危ない場所へ行くことがありそうなら、私の薬を持っていってください。」

「いいの?」

「その代わり。」


 眼鏡の奥の瞳がきらりと光る。


「何か珍しい素材があったら、持ってきてください!」

「素材?」

「はい!」


 今までで一番元気な声だった。


「薬草でも、鉱石でも、魔物素材でも!」

「分かった。」


 アベルは笑って頷く。


「見つけたら持ってくるよ。」

「約束ですよ!」



 研究室を出たアベルの背中を見送りながら、ミリアはぽつりと呟く。


「不思議な人……。」


 普通なら試作品など怖くて使えない。

 それなのに彼は迷いもしなかった。

 自分を信じてくれた。

 そんな人は、学院に来て初めてだった。

 机の上には、治療に使った空瓶が一本。

 ミリアはそれをそっと撫でる。


「また……来てくれるかな。」


 その頬には、自分でも気付かないほど柔らかな笑みが浮かんでいた。


 これが、アベルと錬金術師ミリアの、小さな縁の始まりだった。



 一方その頃、特別クラスの女子寮では、セレスティアが窓辺に立ち、夜空を眺めていた。


 今日、自分たちを救ってくれた黒衣の青年。

 その姿は認識阻害の加護のせいで曖昧なのに、不思議と心から離れない。

 隣ではエマが静かに微笑む。


「姫様。どうしました?」


 エマは普通の人が見てもわからないであろうセレスティアの微妙な表情の変化を読み解いて言葉を紡ぐ。


「きっと、またお会いできますよ。」


 セレスティアは小さく頷いた。


「ええ。」


 その「英雄」を思い浮かべながら。


 そしてその英雄は今、そんなこととは露ほども知らず、錬金術師と交わした「珍しい素材を持ってくる」という約束を思い返しながら、自室への帰路についていた。

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