008話 誇り高き王女(後編)*
――間に合え。
林の中で気配を潜めていたアベルは、野盗の剣が侍女エマへ振り下ろされるのを見た瞬間、地面を蹴っていた。
風を切るように黒い外套が翻る。
《夜渡りの外套》。
高難度迷宮《黒霧の迷宮》の最奥で手に入れた希少装備。
圧倒的な防御力と、装備者の存在を曖昧に認識させる加護を持つ伝説級の装備だ。
アベルはその加護を意識したことはない。
ただ「やたら頑丈で便利な外套」くらいにしか思っていなかった。
ガキィン!
金属がぶつかる鋭い音が街道に響く。
エマへ振り下ろされた剣は、黒衣の青年が差し出した剣によって受け止められていた。
「なっ!?」
野盗が目を見開く。
その隙を逃さず、アベルは身体を捻る。
柄頭が男の鳩尾へめり込み、野盗は声もなく崩れ落ちた。
エマは腰を抜かしたまま、その青年を見上げる。
黒い外套。
深く被ったフード。
輪郭はぼやけて見える。
だが、ほんの一歩の距離。
差し伸べられた右手を見た瞬間だけ、不思議と認識がはっきりした。
まだ自分とそう変わらない年頃。
黒髪。
端正な顔立ち。
整った鼻筋。
少し困ったような、それでいて優しい眼差し。
――きれいな人。
思わずそんな言葉が胸をよぎった。
青年は何も言わず手を差し出す。
「……あ……。」
エマは震える手を重ねる。
その瞬間だった。
ヒュッ!
木陰から一本の矢が放たれた。
狙いはエマの胸。
「!」
アベルは咄嗟に彼女を後ろへ引き寄せる。
同時に剣で矢を払う。
軌道は逸れた。
だが完全には弾ききれない。
矢尻がアベルの左腕を掠めた。
チクリ、と針で刺されたような小さな痛み。
傷は浅い。
しかし、矢尻に付いた黒紫色の液体を見た瞬間、アベルは眉をひそめた。
(毒か。)
《黒蛇の毒》
追加シナリオで登場した厄介な毒だ。
時間が経てば全身を蝕み、通常の解毒薬では効果が薄い。
だが考えるのは後だ。
まだ敵が残っている。
「下がって。」
短く、それだけ告げる。
エマがその声を聞いたのは、それが最初で最後だった。
黒衣の青年は再び敵陣へ飛び込む。
流れるような剣筋。
無駄のない体捌き。
急所を正確に打ち抜き、野盗たちは一人、また一人と倒れていく。
誰一人命は奪わない。
しかし誰一人立ち上がれない。
その姿はまさに一陣の黒い風だった。
護衛騎士たちですら、その強さに見入ってしまう。
最後の一人が武器を捨て、森へ逃げ出した。
アベルは追わない。
深追いすれば毒が回る。
それよりも――。
ちらりとエマを見る。
無事だ。
セレスティアも護衛に守られている。
(これで十分。)
踵を返す。
「ま、待ってください!」
エマが思わず叫ぶ。
青年は振り返らない。
礼を受けるために助けたわけではない。
それに今は、一刻も早く毒をどうにかしなければならなかった。
学院の医務室では間に合わない。
普通の解毒薬では効かないことを、アベルはゲーム知識で知っている。
追加シナリオで唯一、この毒を完全に解毒できる試作品を作っていた少女がいた。
錬金術科の一年。
ミリア。
(まだ研究室にいる時間のはずだ。)
アベルはそのまま森の中へ姿を消した。
黒い外套が木々の間に溶けるように見えなくなる。
⸻
「エマ!」
セレスティアが駆け寄り、彼女を強く抱き締めた。
「無事で……本当に、無事で良かった……!」
普段は決して見せない取り乱した姿だった。
幼い頃から姉のように寄り添ってくれた侍女。
その命が失われるかもしれないと思った瞬間、胸が締め付けられた。
今こうして腕の中にいる。
その温もりに、思わず涙がこぼれた。
「姫様……。」
エマも涙ぐみながら抱き返す。
「申し訳ありません、ご心配を……。」
「謝らないで。」
セレスティアは首を横に振った。
「あなたが生きていてくれる。それだけで十分です。」
護衛たちも安堵の表情を浮かべていた。
⸻
その様子を、レオニスは少し離れた場所から見つめていた。誰にも気付かれないよう、拳を静かに握る。
(……違う。)
本来なら、ここでエマは死ぬ。
セレスティアは喪失に打ちひしがれ、その悲しみを受け止めることで主人公との絆が生まれる。
それがゲームだった。
なのに。
エマは生きている。
セレスティアは泣いている。
だがそれは悲しみではなく、喜びの涙だ。
(まただ……。)
自分の知る未来が、少しずつ狂っていく。
あの黒衣の男。
ゲームには存在しない異物。
胸の奥に、言いようのない焦燥が広がっていく。
⸻
帰りの馬車。
ようやく落ち着きを取り戻したエマは、窓の外を眺めながらぽつりと呟いた。
「姫様。」
「どうしました?」
「……あの方、本当に英雄のようなお方でした。」
セレスティアは少し首を傾げる。
「英雄?」
「はい。」
エマは恥ずかしそうに笑う。
「皆様にはお顔が見えなかったと思います。でも私は、手を取っていただいた時だけ……少しだけ、お顔が見えたんです。」
「そうだったの?」
「認識を惑わせる魔道具だったのでしょうか……ぼんやりとしか思い出せません。でも、とてもお若くて……それに、とても素敵な方でした。」
頬が赤く染まる。
「命を救ってくださって、お礼も受け取らず、お名前も名乗らず、そのまま去ってしまわれました。」
少しだけ俯き、小さく笑う。
「まるで、おとぎ話に出てくる英雄みたいでした。」
その言葉に、セレスティアも自然と微笑んだ。
「……私も、お礼くらいは申し上げたかったですね。」
黒衣の青年。
認識は曖昧なのに、不思議と黒い瞳だけは心に残っている。
「いつか、またお会いできるでしょうか。」
その言葉に、エマは嬉しそうに頷いた。
「きっと。」
馬車の隅で、その会話を聞いていたレオニスは、誰にも気付かれないよう視線を伏せる。
英雄。
本来、その言葉を向けられるのは自分のはずだった。セレスティアが興味を抱くのも、自分のはずだった。なのに今、二人が語るのは名も知らぬ黒衣の男。
その事実が、胸の奥に小さな棘のように刺さった。レオニスは静かに唇を噛む。
そしてその頃――。
学院の錬金術棟へ向かって走る一人の少年は、自分が誰かの心に「英雄」として刻まれたことなど、知る由もなかった。




