072話 堕ちた神杖
「……ポチ?」
メイは崩れ落ちていく黒い液体を呆然と見つめた。
「ポチ。」
返事はない。黒い身体は音もなく崩壊を続け、小さなコアは短聖剣に貫かれたまま完全に砕け散った。
「ポチ……。」
その声は震えていた。今までの甘く妖艶な響きではない。まるで大切な家族を失った少女のような声だった。
数秒の沈黙。
そして――。
「あなたたちぃぃぃぃぃっ!!」
絶望の塔を揺るがす絶叫が響き渡る。膨大な魔力がメイの身体から噴き上がり、床石が音を立てて砕け始めた。
ガルドは思わず一歩退く。
「魔力が……さっきまでとは桁違いだ。」
アベルも息を呑んだ。ポチという防御を失った代わりに、メイ自身の魔力が暴走している。怒りが、悲しみが、理性の枷を外していた。
「絶対に許さない……。」
「絶対に。」
「絶対に。」
メイは俯いたまま繰り返す。その瞳からは大粒の涙が零れ落ちていた。
その時だった。
祭壇中央の魔法陣が眩い光を放ち、赤黒い紋様が幾重にも重なり、塔全体へ広がっていった。
ゴォォォォォン――。
重厚な鐘のような音が響いた。
祭壇に浮かんでいた神杖クングニルがゆっくりと回転を始める。白銀だった杖身が、根元から徐々に黒く染まっていく。金色だった装飾は禍々しい深紅へ。神聖な輝きは消え失せ、代わりに濃密な瘴気が溢れ出す。
アベルの顔色が変わる。
「まさか……。」
儀式は止められなかった。
神杖は完全に邪悪へと染め上げられた。
――フォーリンダウン。
本来、人類を守るための神器は、その姿を変える。
神杖クングニルではない。
魔杖グングニルへ。
⸻
メイはゆっくりと移動して、その柄を握った。今まで決して触れることのできなかった神器が、まるで主人を迎えるように黒い光を放つ。
「ふふ……。」
涙を流しながらも、メイは静かに笑った。
「もう、誰にも返さない。この子は、わたくしのもの。」
魔杖を軽く振る。その動きだけで空間が裂けるような轟音が響いた。
アベルは反射的に叫ぶ。
「避けて!」
次の瞬間、黒い閃光が一直線に走った。
轟ッ!!
誰も立っていなかった後方の壁が消えた。
砕けたのではない。
抉り取られた。
厚い石壁が一直線に蒸発し、塔の外壁にまで巨大な穴が開いていた。
「なんだ……今のは。」
トーヴが青ざめる。
メイは魔杖を片手で軽々と回した。
「すごい。これがグングニル。
ポチにも見せてあげたかったなぁ。」
その笑顔には、もう狂気しか残っていなかった。
「次は外さない。」
魔杖の穂先がアベルを指す。黒い光が凝縮される。
アベルは全身の毛穴が総毛立つのを感じた。
(避ける。防ぐじゃない。避けるしかない。)
放たれた黒い閃光は、まるで意思を持つ槍だった。アベルが横へ跳ぶ。その軌跡を追うように黒い光が空中で軌道を変える。
「追尾するのか!」
ガルドが叫ぶ。
アベルは辛うじて身を捻る。黒い閃光は肩を掠めるだけで済んだ。しかし掠めただけで肩当てごと肉が抉られ、鮮血が飛び散った。
間髪入れず二撃目。
三撃目。
四撃目。
メイはまるで遊ぶように魔杖を振るい続ける。
そのたびに黒い光が塔を切り裂き、床を穿ち、柱を粉砕する。防御も盾も意味を成さない。避け続けるしかない圧倒的な殺傷能力。
ガルドたちは散開しながら必死に生き延びる。それでも一人、また一人と掠めた衝撃だけで吹き飛ばされ、壁へ叩き付けられていく。
アベルは血を流しながら短聖剣を握り締めた。
ポチを倒しても終わりではなかった。むしろ本当の絶望は、ここから始まろうとしていた。




