049話 奈落の魔女*
「……静かだな。」
ガルドが周囲を見回す。
巨大な鍾乳石が天井から垂れ下がり、足元には青白く光る苔が広がっている。
魔物の気配はある。
だが、姿が見えない。
「嫌な静けさだ。」
バルドが剣の柄へ手を掛ける。
リックも小さく頷いた。
「ここまで来ると、魔物より地形の方が怖ぇ。」
最後尾を歩くトーヴが周囲へ魔力探知を広げる。
「……妙だ。反応が一つしかない。」
「一つ?」
アベルが問い返す。
「こんな深層なら群れでもおかしくありません。」
「だから妙なんだ。」
トーヴの表情が険しくなる。
「一つだけ。しかも、とんでもなく大きい。」
その時だった。
「ふふっ。」
女の笑い声が洞窟へ響いた。
五人が同時に武器を構える。
「誰だ!」
ガルドが叫ぶ。
闇の奥から、一人の女がゆっくり姿を現した。
腰まで届く亜麻色の長い髪。
妖艶な紫色の瞳。
真紅のドレスにも見える衣装。
しかし、その下半身は巨大な蜘蛛だった。
八本の脚が岩肌を這うたび、不気味な音が響く。
美しさと禍々しさ。
相反する二つを同時に纏う存在。
「……アラクネ。」
トーヴが低く呟く。
女はくすりと笑った。
「ただのアラクネと一緒にしないでちょうだい。」
優雅に一礼する。
「魔王軍四天王が一柱。
《奈落の魔女》ことルシィ。
今日は誰が遊んでくれるのかしら?」
その名を聞いた瞬間。
ガイルたち四人の表情が凍りつく。
「四天王……だと。」
バルドの額を汗が流れる。
リックも乾いた笑みを浮かべた。
「冗談じゃねぇ。」
「こんなの、伝説の中の存在だろ。」
アベルだけは静かに剣を構えた。
「皆さん。下がってください。」
ガイルが首を振る。
「馬鹿言うな。仲間を置いて逃げられるか。」
ルシィはその様子を見て、楽しそうに微笑んだ。
「いいわねぇ。そういう絆。壊したくなっちゃう。」
ルシィが指を鳴らす。
その瞬間、漆黒の糸が空間を裂いた。
「散れ!」
ガルドの叫びで五人が飛び退く。
直後。
背後の岩壁が音もなく切断され、崩れ落ちた。
「嘘だろ……。」
リックが息を呑む。
糸が見えなかった。
反応できたのは、長年の経験による勘のおかげだった。
ルシィは微笑む。
「避けるのね。少しだけ期待できそう。」
⸻
「行くぞ!」
ガルドが飛び出す。
大剣が唸る。
バルドも左右から挟み込む。
二人の連携は迷いがない。
だが…
ルシィは微動だにしなかった。
「遅い。」
蜘蛛脚が一閃する。凄まじい衝撃でガルドの巨体が吹き飛び、岩壁へ激突した。
「ぐっ……!」
同時にバルドも蹴り飛ばされる。重装鎧が大きくへこみ、そのまま地面を転がった。
「ガルドさん!」
アベルが駆け寄ろうとした瞬間。
「よそ見は禁止。」
無数の糸が降り注ぐ。アベルはそれを剣で切り払う。
だが、一本だけ切れなかった。
鋼すら断ち切る斬撃を受け止める糸。
「硬い!」
その隙を突き、蜘蛛脚が迫る。
「危ない!」
トーヴが割って入り、防御魔法を展開した。
轟音。
結界は一瞬で砕け散る。
トーヴは血を吐きながら膝をついた。
「トーヴさん!」
「まだ……生きている。」
しかし立てない。腕が震えていた。
リックが背後から斧を振り下ろす。
「おおおおおっ!」
全力の一撃。ルシィは振り返りもせず、その刃を二本の指で受け止めた。
「力だけはあるのね。」
次の瞬間、腹部へ蜘蛛脚が突き刺さる。
「がはっ!」
リックは鮮血を吐き、そのまま吹き飛ばされた。
「リック!」
ガルドが立ち上がろうとする。
しかし身体が動かない。
ルシィは退屈そうにため息をついた。
「終わり? …せっかく期待したのに。」
倒れていく仲間たち。歴戦の《宵闇の月》が、まるで子ども扱いだった。アベルは拳を強く握る。これまで出会ったどんな魔物とも違う。
圧倒的。
絶望的。
それでも、逃げるという選択肢だけは、彼の中には存在しなかった。
アベルは静かに剣を構える。その姿を見たルシィは、初めて興味深そうに微笑む。
「へぇ。あなたは、まだ立つのね。」
紫色の瞳が細められる。
「なら――最後はあなたと遊んであげる。」
奈落の最深部。
勇者と四天王。
その死闘の幕が、静かに上がろうとしていた。




