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閑話08話 セレスティアとエマ

 王都・アルセリア大使館


 学院から帰宅したセレスティアは、自室の窓辺で穏やかな午後を過ごしていた。差し込む夕陽が部屋を優しく照らし、淹れたての紅茶からは上品な香りが立ち上る。


「お待たせいたしました、お嬢様。」


 銀の盆を手にした侍女エマが、静かにティーカップを差し出した。


「ありがとう、エマ。」


 幼い頃から仕えてくれている彼女の所作は、今日も変わらず美しい。セレスティアは微笑みながらカップを受け取った。


「学院生活はいかがですか?」

「とても充実しています。」


 その答えには迷いがなかった。


「皆さん本当に優秀で、毎日新しい発見があります。迷宮探索も順調でしたし……。」


 そこまで話すと、自然と口元が緩む。


「特にレオニス様は、本当に頼りになる方なんです。」


 エマは主人の表情を見て安堵する。

 以前より笑顔が増えた。それは間違いない。


「そのようなお仲間に恵まれて、本当に良うございました。」

「ええ。」


 セレスティアは嬉しそうに頷いた。


「皆さんと一緒なら、どんな迷宮でも安心できます。」



 しばらく学院での出来事を語り合った後、エマはふと思い出したように口を開いた。


「そういえば、お嬢様。以前、山道で私たちを助けてくださった黒い外套の男性のことを覚えていらっしゃいますか?」


 その言葉に、セレスティアは一瞬だけ考え込む。


「黒い……外套の方。」

「はい。」


 エマは静かに頷く。


「あの後、学院について少し耳にした話なのですが、黒髪の男子生徒で、いつも黒い外套を身につけている方がお一人いらっしゃるそうです。お名前は……アベル様と仰るとか。」


 セレスティアの瞳がわずかに揺れた。


「アベル……。」


 学院で何度か見かけた生徒。

 黒髪。

 あまり言葉は多くないが穏やかな物腰。

 そして、黒い外套。

 ぼんやりとしていた記憶が、一瞬だけ繋がりかける。


「もし同じ方でしたら。」


 エマは続ける。


「命の恩人にようやくお礼を申し上げることができますね。」


 セレスティアは静かに頷く。


「そう……ですね。」


 一瞬だけ沈黙が流れる。


 しかし、その沈黙は長く続かなかった。


「あ、そういえば。」


 セレスティアはふと何かを思い出したように顔を上げる。


「レオニス様が先日の迷宮で――」


 そこから先は止まらなかった。


「本当に素晴らしい指揮だったんです。迷宮の構造まで知っているようで、危険な場所も全部避けてくださって。皆さんも安心して戦えました。」


 黒衣の男の話題は、それきりだった。

 まるで最初から存在しなかったかのように。


(……おかしい。)


 エマは笑顔で相槌を打ちながらも、胸の奥では強い違和感を覚えていた。以前のお嬢様なら、命の恩人かもしれない人物の名を聞けば、もっと知りたがったはずだ。


 「ぜひお会いしてお礼を申し上げたい」と目を輝かせていたはずだ。


 それなのに…ほんの一瞬だけ考え込んだかと思えば、何事もなかったようにレオニス殿下の話へ移ってしまった。しかも、その話題の切り替え方はあまりにも自然だった。


 自然すぎるほどに。



 紅茶のおかわりを注ごうとした時だった。

 エマの視線が、セレスティアの左手に止まる。

 その中指には、見慣れない銀色の指輪がはめられていた。細やかな彫刻が施され、中央には淡く青白い宝石が輝いている。


「あら、お嬢様。その指輪は新しいものでございますか?」


 セレスティアは嬉しそうに右手を眺めた。


「ええ。先日の迷宮探索で見つけた宝箱に入っていたアーティファクトなんです。八つ入っていて、みんなで一つずつ分けました。」

「まあ……。」


 エマは素直に感嘆する。王宮でも滅多に見られないほど見事な細工だった。


「防御力を高めてくれるそうです。それから、仲間との連携を強化してくれるとか。これもレオニス様が説明してくださいました。」


 その時だった。


 窓から差し込んだ夕陽を受け、指輪の表面に一瞬だけ黒い靄のようなものが揺らめいた気がした。


(……汚れ?)


 迷宮で付着した煤か何かだろうか。

 エマは侍女として、ごく自然に口を開く。


「お嬢様。もしよろしければ、一度お預かりして磨かせていただけませんか。少し汚れが付いているように見えましたので。」


 その瞬間、セレスティアの指先が、無意識に指輪へ触れた。


 ほんのわずかな動き。

 だが、エマは見逃さなかった。


「……いえ。」


 セレスティアは柔らかな笑顔を浮かべる。


「大丈夫です。」


「レオニス様から、常に身につけていた方が良いと伺っていますので。」

「左様でございましたか。」


 エマは深く頭を下げ、それ以上は勧めなかった。

 主人の装飾品を手入れすることは侍女として当然の務め。それを断られること自体は珍しくない。


 だが――。


(今のお嬢様は。)


 以前なら、


「ありがとう、お願い。」


 と、何のためらいもなく預けてくださったはずだ。

 今日の反応は違う。

 まるで、その指輪を手放してはいけないと、本能的に感じているようだった。



 部屋を辞したエマは、静かに廊下を歩いていた。

 足は自然と止まる。

 窓から見える夕焼けを見つめながら、小さく息を吐いた。


(命の恩人の話になると、自然に話題が逸れる。そして、あの指輪……。)


 偶然。そう片付けるには、不自然なことが続きすぎている。セレスティアに仕えて十年以上。彼女を見る目には多少の自信がある。だからこそ、今日のセレスティアはどこか”らしくなかった”。


(……調べる必要があるかもしれません。)


 その呟きは、誰にも聞こえなかった。


 だがその日、王女を誰よりも近くで見守ってきた侍女エマだけが、学院で起きている”何か”に初めて明確な疑念を抱き始めていた。

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