閑話78話 マユミを想う
メアが目を閉じ、アベルの胸に身体を預けたまま、しばらく静かな時間が流れていた。
夢魔の館の夜は静かだった。
聞こえるのは、遠くで夢魔たちが交わす小さな話し声と、魔石が淡く明滅する音だけ。
アベルはメアの髪をゆっくりと撫で続けていた。
このまま時間が止まればいい。
そんなことを、ふと思う。
けれど、その穏やかな気持ちは、ある少女の顔が脳裏をよぎった瞬間に途切れた。
「……マユミ」
アベルが小さく呟く。
すると、胸元にいたメアの身体が僅かに強張った。
「……もしかして、メアも考えてた?」
「……私も、今ちょうど」
二人の視線が重なる。
言葉にしなくても分かった。
マユミのことだ。
マユミが魔王の娘だったとセレスティア達に聞かされたのはつい最近の事だ。少し影はあるものの普段は明るく素直で、時には少し抜けているようにも見えていた少女。けれど、その胸の奥には、魔族と人間の間で揺れ続ける複雑な感情を抱えていた。それでも、從魔契約を結んだ時のマユミの言葉は、間違いなく彼女の本心だとメアも太鼓判を押している。なら、信じない理由はない。
メアはチョーカーをつけている時の記憶がなく、今のマユミが、どのような立場なのかはわからずじまいだった。もしかしたら、魔王の命令によって危険な立場に置かれているかもしれない。
「……マユミは、大丈夫かな……」
アベルの声には、隠しきれない心配が滲んでいた。
「分かりません」
メアも俯く。
「私も、姫様のことが心配です。魔王の娘とはいえ、決して良い扱いを受けていた印象はないですから……それに……。」
「それに?」
「……私にとって、妹のような存在ですから」
メアは少しだけ苦しそうに笑った。
実際に血が繋がっているわけではない。
それでも、魔王の命令に従うことしか知らなかった自分とは違い、マユミはまだ自分自身の意思を捨てていない。だからこそ、メアは彼女を放っておけなかった。
「姫様は、まだ若いです」
「ああ」
「自分が何を選べばいいのかも、きっと分からないと思います」
「……そうだな」
アベルも頷く。
マユミが自分たちに近づいた理由は、最初から純粋な好意だけではなかった。魔王の命で、勇者であるアベルを探るためだった。それでも、旅をするうちに時折見せていた笑顔は本物だった。
むしろ――。
「マユミは、本当は優しい子なんだと思う」
「はい」
メアは迷いなく答えた。
「だからこそ、心配なのです」
「……うん」
アベルの手が、再びメアの髪を撫でる。
けれど先ほどまでの穏やかな笑顔は、もうなかった。
「俺たちがこうしている間にも、マユミは一人で何かを抱えてるかもしれない」
「……」
「もし魔王に何か命じられていたら」
アベルはそこで言葉を止めた。
考えたくない可能性だった。
メアも同じことを考えているのだろう。
「……姫様を、助けたいです」
その言葉は小さかった。
けれど、はっきりしていた。
「うん。俺もだ」
「アベル様。姫様が何を選んだとしても、ちゃんと話をしてください。」
「……もちろんだ。」
アベルは苦笑する。
「俺たちはこれから魔王と戦うことになる。彼女の父親とだ。だから、マユミとも戦うことになる可能性はある」
「……はい」
「でも、だからって最初から敵だと決めつけるつもりはない」
メアはしばらく黙っていた。
やがて、アベルの手を握り返す。
「……ありがとうございます」
「何が?」
「姫様のことを、そんなふうに考えてくださって」
「俺だけじゃないだろ」
「はい」
メアはアベルの胸に再び頬を寄せる。
「だから……少し安心しました」
「メア?」
「私も、姫様を助けたいと思っています。でも、今の私は、足手まといです」
自分の身体を見下ろす。
まだ力が戻っていない。
「そんなことない」
アベルは即座に否定した。
「メアが生きてここにいる。それだけで十分だよ」
「……」
メアは静かに頷いた。
そして少しだけ顔を上げる。
「でも、アベル様」
「うん?」
「動けるようになったら、私に出来る事をしようと思います」
「ああ。期待しているよ。」
「はい!」
メアはようやく安心したように微笑んだ。
「……だから、今はもう少しだけ甘えてもいいでしょうか」
「もちろん」
「では……」
メアは再びアベルの胸へ身体を預ける。
「もう少しだけ、こうしていてください」
「ああ」
アベルは彼女を抱き寄せる。
さっきまでと同じ距離。けれど、二人の心には一人の少女の存在が残っていた。
今はまだ、この静かな部屋で互いを支え合うしかない。それでも、いつか必ずマユミのところへ行く。
彼女が一人で苦しみ続ける前に。
そして――できることなら、三人で笑える日を取り戻すために。
アベルとメアは、そんな小さな願いを胸に抱きながら、しばらく互いの温もりを感じていた。




