345話 千の軍勢*
夢魔の館。
インキュバスとの戦いが終わってから、まだ半日も経っていなかった。
館の中には、ようやく穏やかな空気が戻り始めていた。傷ついた夢魔たちは互いに支え合い、戦闘で破損した設備の修繕も少しずつ進んでいる。
メルは広間に集まったアベルたちへ、改めて頭を下げた。
「皆さん、本当にありがとうございました。あのインキュバスを倒していただかなければ、私たちは今頃どうなっていたか……」
「礼はもう十分だよ。それよりサキュバスの皆は大丈夫か?」
アベルの問いに、メルの表情が笑顔になった。
「ええ。濃厚で芳醇な精気を沢山頂けたので。」
見渡せばサキュバスの美女と美少女達は皆ツヤツヤしている。一方、セレスティアとアンジェリカは真っ赤になって俯いていた。
「どうして私はあんな事を……。」
「穴があったら入りたいです……。」
セレスティアとアンジェリカがそれぞれ静かに呟く。その後ろで侍女のソラムとソレムは親指を立てて、したり顔だ。
一方で、リシアは遠い目をしていた。
◇
「だが、これで終わりじゃないよな…。」
アベルのその言葉を聞き、メルは腕を組んだ。インキュバスは彼女達サキュバスにとって、とても相性の悪い敵だった。精気を奪い、それを自らの力へ変換する能力。精神や幻影に作用するサキュバスの力も、相手が精気を吸収してしまえば十分な効果を発揮できない。そんな相手がまた来るかもしれない。対策は必須だった。
「……あいつが戻らないことは、遅かれ早かれ魔王軍にも伝わるだろうしな」
「そうですね」
ルナが頷く。
「魔力反応が途絶えた時点で、敗北した可能性は疑われているはずです。報告が途絶えた理由を調べるため、別の部隊を派遣してくるかもしれません」
「別の部隊、ですか……」
メルが不安そうに目を伏せた。
アベルはその様子を見て、なるべく穏やかな声で告げた。
「心配するな。次に来るなら、今度は最初から迎え撃つ」
メルは顔を上げた。
「……ありがとうございます」
その言葉を交わした直後だった。
館の外から、甲高い警報音が響き渡った。
◇
「敵襲! 敵襲です!」
駆け込んできたサキュバスの一人が、息を切らしながら叫んだ。広間にいた全員が一斉に立ち上がる。
「どこからですか?」
セレスティアが尋ねる。
「森の東側です! 見張り台から、魔族の大軍が接近しているのを確認しました!」
「数は?」
「正確には分かりません! ですが……少なくとも数百。後方にも、まだ大勢いるようです!」
その報告に、広間の空気が凍りついた。
アベルはすぐに窓際へ向かった。館の高い窓からは、森の向こうに広がる丘陵地帯が見える。そこに、黒い点がいくつも現れていた。点は増え続け、やがて大地を埋め尽くすほどの列となっていく。
整然と進む歩兵の魔族。
重装備の魔族兵。
大型の魔獣を引き連れた部隊。
さらに、空には飛行型の魔族が散開していた。
「一個大隊規模か」
アベルが低く呟く。
先ほどの想定とは、まるで規模が違う。
個人の能力を頼りにした襲撃ではない。最初から組織的な作戦として準備された軍勢だった。
「そんな……」
メルの顔から血の気が引いていく。
「これほどの軍勢を、たった半日で……?」
「もともと近くに待機していたのかもしれません」
クラリスが冷静に分析する。
「インキュバスの敗北を確認してから動いたのなら、これだけの兵を集めるのは難しいでしょう。つまり、最初から別働隊が用意されていた可能性がありますわ」
ミリアは窓の外を見つめ、唇を噛んだ。
「最初の襲撃が失敗した場合に備えていた……ということですか」
「おそらくな」
アベルは短聖剣の柄に手を添えた。
そのとき、丘の上に一際大きな旗が掲げられた。
黒地に赤い紋章。それは魔王軍の旗だった。
◇
先頭に立つ指揮官らしき魔族が、「やれやれ、貴族のインキュバスのお坊ちゃんも口だけだったか」と悪態をつきながら、拡声の魔道具を口元へ近づける。
『サキュバスの一族に告げる!』
声が森を越え、館の外壁まで響いてきた。
『我らは魔王陛下の命により、この地へ来た!』
夢魔たちが互いの顔を見合わせる。
『お前たちは、魔王陛下の支配に服するべき種族である! これ以上の抵抗は認められぬ!』
指揮官は一拍置き、はっきりと告げた。
『武器を捨て、全員投降せよ! 抵抗する者は拘束する! そして、サキュバス族は一人残らず魔王軍の管理下へ置く!』
メルの拳が震えた。
「管理下……?」
指揮官の声は、なおも続く。
『若い者も、年老いた者も、例外はない! 全員を捕らえ、魔王軍に従軍させる! 逃亡を試みても無駄だ! 我らは地の果てまでも貴様らを捕まえる!』
その言葉の意味を、サキュバスたちは理解していた。支配し、自由を奪い、道具として使うために連れていこうとしているのだ。幼いサキュバスたちが、怯えた表情で母親や年長者にしがみつく。
「お母さん……」
「大丈夫よ」
母親はそう答えたものの、その声は震えていた。
メルは目を閉じ、深く息を吸った。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
「……やはり、魔王はどうしても私たちを手駒にしたいようですね。」
「ええ。そのための方法もありますから。」
ミリアが苦しそうに答えた。
ルナが窓の外を見つめた。魔力反応が更に増えていた。
アベルは振り返り、広間に集まったサキュバスたちを見た。彼女たちは戦闘に慣れていない者が多い。中には、魔族兵一人を相手にすることさえ難しい者もいるだろう。それでも、魔王軍は一人残らず捕らえると言い切った。逃げることも許さず、抵抗すれば力ずくで従わせる。それが彼らの目的だった。
「メルさん」
アベルは静かに呼びかけた。
「館にいるサキュバスは、全員でどれくらいだ?」
「子供も含めて、二百人ほどです」
「二百人……」
アベルは短く息を吐いた。
相手は千人規模の軍勢。正面から戦えば、こちらの数的不利は明らかだったしかも守るべき相手は、戦える者だけではない。幼い夢魔も、負傷している者もいる。
敵を倒すことだけを考えれば、選択肢はいくつかある。だが、夢魔たちを守りながら戦うとなれば話は違った。
「戦えない者だけでも飛空艇で逃がすことはできないでしょうか?」
ミリアが案を出す。
アベル達が乗ってきた飛空艇なら50人ぐらいまでなら館を離れて安全な場所へ移動できるかもしれない。
しかし、アンジェリカはすぐに首を横に振った。
「一度、帝国に戻してしまいましたから、今から呼んでも此処に着くのは明日の夕刻です。飛行型の魔物もいますし……。今すぐならともかく、そのタイミングで地上からの魔法攻撃を防ぎながら避難するのは、ほぼ不可能だと思います。」
「夢魔は飛空艇ほど早くはありませんが一応、飛べますから、その対策として飛行型の魔族まで動員しているのでしょうしね。」
メルは静かに目を伏せた。
「それに……私たちには、この館があります」
広間の壁に手を添える。
「ここには、先祖から受け継いできた記録も、魔導設備も、精気の流れを安定させるための施設もあるのです。ここを失えば、私たちの生活そのものが崩れてしまいます」
彼女は、幼い夢魔たちへ目を向けた。
「私たちだけが逃げ延びればいい、というわけにはいきません」
アベルはその言葉を聞き、静かに頷いた。
逃げるという選択肢がないわけではない。しかし、それは夢魔たち全員を救う方法ではなかった。館を捨て、追跡から逃げ続け、いつか精気が尽きる恐怖に怯えながら暮らす。それを生き残ったと言えるのか。
「分かった」
アベルは短聖剣を抜いた。
「なら、ここで守る」
その声に、メルが顔を上げる。
「アベル様……」
「俺たちが時間を稼ぐ。その間に、館の防衛準備を整えてくれ」
セレスティアが一歩前へ出た。
「私たちも戦います。夢魔の皆さんを、魔王軍の好きにはさせません」
「当然だ」
リシアが剣を抜く。
フェリは弓を手に取り、ルナは魔法陣を展開する準備を始めた。ミリアは持参した魔道具を確認し、クラリスは魔導銃の弾倉を交換する。エリスは負傷者の治療に備えて、聖なる魔力を整えていた。
それぞれが、自分にできることを始める。
メルはしばらく彼女たちを見つめていたが、やがて深く頭を下げた。
「……ありがとうございます。私たちも、守られるだけでは終わりません」
その言葉に、周囲の夢魔たちが頷く。
恐怖は消えていない。それでも、誰もが自分にできることを探し始めていた。
◇
館の外では、魔王軍の部隊が着々と包囲を完成させていた。
歩兵が森の出口を塞ぎ、弓兵が高所へ展開する。飛行部隊は上空を旋回し、館からの脱出経路を見張っていた。
指揮官は、館を見据えながら報告を受ける。
「包囲完了まで、あと数分です」
「よし」
指揮官は満足そうに頷いた。
「今回の目的は夢魔の生け捕りだ。傷をつけるなとは言わんが、商品価値を損なうな」
「はっ!」
「特に、族長とその娘は優先して確保しろ。抵抗が激しい場合は、魔力を封じてから拘束する」
指揮官は黒い旗を掲げた。
「魔王陛下への献上品だ。一人たりとも逃がすな!」
号令とともに、千の軍勢が動き始めた。
森の木々が揺れ、地面が震える。館の正門の向こうから、魔族兵たちの足音が迫ってくる。
アベルは仲間たちと並び、短聖剣を構えた。
「来るぞ」
誰も返事をしなかった。
その必要はなかった。
全員が、同じものを見据えていたからだ。
夢魔の館を囲む、黒い軍勢。
そして、その後方に掲げられた魔王軍の旗。
今度の戦いは、インキュバスとの一騎打ちとは違う。
相手はおよそ千人。
守るべき夢魔は二百人。
アベルは息を整え、剣の柄を握り直した。
「……絶対に、渡さない」
その声は静かだった。
だが、揺るぎはなかった。
夢魔の館を巡る、千の軍勢との戦いが始まろうとしていた。




