341話 襲撃
夢魔の館。
メアの治療が始まってから、さらに数日が過ぎていた。回復は順調だったが、まだ一人で長時間起きていることは難しい。まして歩き回ることなど、とてもできない。それでも、以前のように、意識を長時間失うようなことはなくなっていた。
◇
「メアさん、今日は体調いいみたいですね。」
「昨日より安定しているように見えます。」
エリスとセレスティアが車椅子に腰掛けたメアの体調を、ルナとミリアが魔力と精気を確認する。
「魔力も回復してきている」
「だいぶ精気も溜まってきたのかな」
ミリアも完成したばかりの精気計測用の魔導具を覗き込んだ。
「少しずつですけど、ちゃんと増えてます」
「良かった……」
リシアが微笑む。
メアはベッドへ背を預けながら、申し訳なさそうに笑った。
「皆さんに、ずっと迷惑をかけていますね」
「迷惑ではありませんよ。」
セレスティアが静かに答える。
「メアさんが元気になればアベル様が喜びます。だから、私たちが勝手にやっていることでもあります。そういう打算だと思って貰えれば気も楽でしょう?」
クラリスも微笑む。
「あなたが気にする必要はありませんわ」
「そうだよ」
フェリがベッドの横から顔を出す。
「だから、早く元気になってね。」
「……ありがとうございます」
メアの表情が少しだけ柔らかくなった。
その様子を、少し離れた場所からアベルが見ていた。
「順調みたいだな」
「はい」
メルが頷く。
「もう少しすれば普通に歩けるようにもなるでしょう。」
アベルも安心したように息を吐いた。
長い治療だったが、ようやく出口が見え始めている。
そう思った。
その瞬間だった。
◇
館の外から。
低い轟音が響いた。
「……?」
全員が顔を上げる。
もう一度、今度は、はっきりと大地が震えた。
窓ガラスが小さく揺れる。
メルが立ち上がった。
「これは……」
夢魔の館にいた者たちが、一斉に外へ視線を向ける。
そして、館の入口から、緊張した声が響いた。
「族長!」
「外に……魔王軍が来ています!」
メルの表情が変わった。
「数は?」
「1体だけです。ですが……。」
伝令役のサキュバスの声が震える。
「異常な魔力を持っています」
◇
館の外。
森を抜けた先に、一人の男が立っていた。
黒い外套。
長身。
整った顔立ち。
そして、額から伸びる二本の角。
背中には黒い翼。
その姿を見ただけで、サキュバスたちの表情が凍りついた。
「……インキュバス」
屋敷の前に立ったメルが低く呟く。メルの後ろには武装したサキュバス達が集まっていた。
男は笑った。
「久しぶりですね、夢魔の族長」
「あなたが、この館へ何の用です」
「いや、貴方達の身柄を魔王様に捧げようと思いましてね。」
空気が凍った。
メルの顔から表情が消える。
「……我らは魔王には従わない。」
「即答ですか」
「当然でしょう。ヒト族を根絶やしにするのは我らも滅びるのと同義なのだから。」
メルはインキュバスを見据えて言う。
「我らは魔王の邪魔をしない代わりに魔王もこちらに手出ししない。これは古からの契約で不文律だったはず。それをそちらの都合で一方的に破棄するなど許される訳がない。」
「それは魔王様と貴女達との契約でしょう。私には関係ありません。」
メルは一歩前へ出た。
「そもそも今まで我らに見向きもしなかったのに何故急に?」
男の視線が館の奥へ向く。
「そこのメアが存在価値を示したからですよ」
男は平然と答える。
「今や魔王様は、サキュバスを駒として必要としておられる。そこのメアが存在価値を示した事で、貴様らの評価が見直されたのだ。我らと違い戦力にならない貴様らが評価されるのは剛腹だが、貴女らを従えることで魔王様からの覚えが良くなるなら話は別だ。」
その言葉に夢魔たちがざわめいた。
「そんな……」
男は笑う。
「さあ、全員我と共に来てもらうぞ。」
◇
そこにサキュバスの後ろで様子を伺っていたアベル達が前へ出た。
「そんな事はさせない!」
男の視線がアベルへ向く。
「ヒト族?」
「ああ」
「なぜヒト族が夢魔の館にいる……ああ、客か。もうこの娼館は店じまいだ。疾く去れ。」
「ふざけるな。」
短い返答。
男はしばらくアベルを見つめた。
「貴様……まさか、勇者か?」
その瞬間、男の表情から笑みが消えた。
「なるほど。ならば、あなたも邪魔をするということですね」
「そういうことだ」
男が一歩踏み出した。
その瞬間、館の周囲に、黒い魔力が広がった。
「っ……!」
サキュバスたちが一斉に顔を歪める。
「何……これ……」
「魔力が……抜かれる……!」
メアの身体も震えた。
「うっ……。」
アベルがすぐに振り返る。
「メア!」
「大丈夫です……」
そう言いながらも、顔色が明らかに悪い。
男は冷たく笑った。
「インキュバスは、古来よりサキュバスから精気を搾取して栄えてきた。サキュバス共が働きバチのようにせっせと集めた精気を我々インキュバスが刈り取る。つまり我らは、サキュバスにとって天敵のようなものなのですよ。」
◇
メルが魔法陣を展開した。
「全員、結界の中へ!」
サキュバスたちが一斉に動く。
だが、
「遅い」
男の指が動いた。
黒い魔力が地面を走る。
数人のサキュバスが膝をついた。
「うあっ……!」
「立てない……!」
サキュバスの精気が、逆流するように吸い取られている。サキュバス達にとって、これは最悪の相性だった。
◇
「アベル!」
リシアが剣を抜く。
「分かってる!」
アベルも短聖剣を構える。
「こいつは俺たちが止める!」
リシアが踏み込む。
同時にフェリが風魔法を放った。
「風刃!」
無数の風の刃が男へ殺到する。
だが、男の周囲に黒い膜が生まれた。
風の刃が触れた瞬間、力を失って消える。
「……吸収した?」
ミリアが目を見開く。
「精気だけじゃなく、魔力そのものを取り込めるの?」
ルナが即座に分析する。
「なら、正面から魔法を撃つのは危険」
「接近戦で!」
リシアが叫ぶ。
アベルが一気に距離を詰めて、短聖剣を横薙ぎに振るう。
インキュバスの男は腕で受ける。
金属音が響いた。
「……!」
アベルの眉が動く。
硬い。
だが、完全に防いだわけではない。
男の腕に浅い傷が走った。
「ほう」
男が初めて驚いた。
「勇者の力ですか」
「だったらどうする」
アベルがさらに踏み込む。
斬撃。
突き。
切り返し。
男は一つずつ受け流していく。
そのたびに黒い魔力が短聖剣へ絡みつく。
「……まずい!」
ルナが叫ぶ。
「剣を通して魔力が吸われてる!」
アベルは即座に剣を引いた。
男が笑う。
「理解が早いな」
◇
その横から。
「はぁっ!」
リシアが飛び込んだ。
男が腕を上げる。
だが、リシアの剣には、淡い光が宿っていた。
それは精霊の加護。黒い魔力が触れた瞬間、弾け飛ぶ。
「なに……?」
男の顔が初めて歪んだ。
「聖なる力……?」
「違う」
リシアは剣を構える。
「私の仲間を守る力だ!」
斬撃が男の肩を捉える。
「ぐっ……!」
男が後退する。
◇
「準備が出来ました!」
エリスが叫んだ。そして仲間の身体へ、短時間だけ魔力抵抗を高める補助術式を展開する。
「これで魔力を奪われにくくなります!」
「助かる!」
メルもすぐに魔法陣を展開した。
「今度はこちらの番です!」
サキュバスたちの力が、再び集まり始める。
だがインキュバスは笑った。
「まだ抵抗するのですか……無駄ですよ」
黒い霧のような魔力が広がり、サキュバスたちの精神へ直接干渉する。
「……っ!」
メアが頭を押さえた。
「メア!」
アベルが振り返る。
「来ないでください!」
メアが叫んだ。
「今、私に近づいたら……アベルまで精気を奪われます!」
「それでも――」
「駄目です!」
メアは車椅子から必死に立ち上がろうとしたが、まだ身体は回復していない。
「……っ!」
その瞬間、アベルが男へ向き直った。
「お前。メアから今すぐ離れろ」
声が低くなる。白銀の魔力が、身体からゆっくりと溢れ出した。
「それ以上、メアたちに何かしてみろ。もう容赦はしない。」
男は笑った。
「勇者とはいえヒト族ごときが何ができる?」
アベルは答えなかった。
短聖剣を構える。
その背後には。
頼れる仲間たちとメア。
そしてサキュバスたち。
「私たちの館で好き勝手させるつもりはありません」
メルが静かに言った。
メアは震える身体を支えながら、ゆっくりと顔を上げる。
「……私も。戦います」
アベルが振り返る。
「無理するな。」
「でも……。」
メアは小さく笑った。
「ここは、私の帰る場所ですから」
◇
インキュバスが目を細める。
夢魔たちだけなら、容易に制圧できた。
だが、勇者とその仲間は想定外の相手だった。
「……面白い」
黒い魔力がさらに膨れ上がる。
「では、まとめて夢の中へ沈めて差し上げましょう」
次の瞬間、森全体が黒い霧に包まれた。
アベルは短聖剣を握り直す。
夢魔の館を守る戦いが本当の意味で始まった。
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