閑話75話 エリスの新しい聖衣*
夢魔の館。
エリスは、割り当てられた部屋の姿見の前で何度も自分の姿を確認していた。
純白の生地に、金糸で精緻な紋様が刺繍された聖衣は、彼女がこれまで身につけていた聖職者の衣服とは明らかに違っていた。胸元には聖教会の象徴である聖印があしらわれ、裾や袖口には淡い金色の装飾が施されている。華美になりすぎない上品な意匠でありながら、見る者に神聖さと気品を感じさせる、まさに聖女にふさわしい衣装だった。
これは、教皇ファティマから直接賜った特別な聖衣である。
エリスが聖女として歩んできた道のりと、これからの期待を込めて贈られたものであり、聖教会にとっても大きな意味を持つ品だった。
「……やっぱり、少し恥ずかしいですね」
エリスは頬を染めながら、胸元の聖印にそっと触れた。
もちろん、聖衣を着ること自体は初めてではない。聖女として人前に立つ際には、それにふさわしい装いを求められることもあった。しかし、今回の聖衣は特別だった。教皇から直接手渡されたというだけでなく、今の自分が本当にこれを身につけるにふさわしいのかという思いもあったからだ。
かつて、エリスは自分の回復魔法を思うように使えなくなったことがある。
魔王側に与し、人間を傷つける魔族や魔獣を治療していた自分は、神に見放されてしまったのではないか。そんな疑念が胸から離れず、聖女としての自信を失いかけていた。
けれど、アベルはそんな彼女を責めなかった。
力が使えないからといって、これまで積み重ねてきた努力まで失われるわけではない。そう言って、エリスが再び前を向けるように支えてくれたのだ。
だからこそ、今の自分が教皇から聖衣を賜ったことを、アベルにも知ってほしかった。
「……アベルさん、喜んでくれるでしょうか」
そう呟いたエリスは、もう一度姿見を確認すると、意を決して部屋を出た。
◇
アベルは、共用スペースで魔導具の手入れをしていた。
細かな部品を確認しながら、次の探索に備えて道具の状態を整えていると、廊下から控えめな足音が近づいてきた。
「アベル様、今、少しよろしいですか?」
「エリス? もちろん、いいよ」
顔を上げたアベルは、扉の向こうから現れたエリスを見て、思わず手を止めた。
「……おお」
最初に口から出たのは、そんな感嘆の声だった。
いつもは落ち着いた聖職者の服を身につけているエリスが、今日はまったく違う姿をしていた。純白の聖衣は彼女の柔らかな金髪によく映え、金糸の刺繍が動くたびに光を受けて繊細に輝いている。肩から腰にかけての仕立ては上品で、裾の長い布地が彼女の歩みに合わせて優雅に揺れていた。
聖印を胸に戴いたその姿には、普段の穏やかな雰囲気に加えて、聖女としての威厳が感じられる。
「すごく似合ってるな。綺麗だよ、エリス」
「……っ!」
あまりにも素直な感想に、エリスは一瞬、言葉を失った。
「ほ、本当ですか?」
「もちろん。教皇様から頂いたものなんだろう? すごく立派な聖衣だし、エリスによく似合ってる」
「ありがとうございます……!」
エリスは嬉しそうに微笑んだ。
何度も姿見の前で確認した時には、少し大げさな衣装ではないかと心配していた。しかし、アベルがそう言ってくれると、これを着てきてよかったという気持ちが込み上げてくる。
「実は、出発前に教皇ファティマ様から頂いたんです。これからも聖女として人々を支えてほしい、と……」
「へえ、ファティマ様から直接?」
「はい。とてもありがたいことだと思っています」
そう言いながら、エリスは胸元の聖印にそっと手を添えた。
「でも……私が、本当にこれを身につけるのにふさわしいのか、少し不安でもあるんです」
アベルの表情が、わずかに真剣になる。
「どうして?」
「私は、一度、聖女としての力を失いかけました。回復魔法さえ使えなくなってしまって……。今でも、あの時のことを思い出すと、また同じことが起きるのではないかと不安になるんです」
エリスは視線を落とした。
教皇から聖衣を賜ったことは、聖教会からの信頼の証でもある。それだけに、自分がその期待に応えられなくなった時のことを考えると、怖くなるのだった。
「この聖衣を着ているのに、誰も助けられなかったら……私は、みんなをがっかりさせてしまうのではないかと」
「エリス」
アベルは、彼女の言葉を遮るように静かに呼びかけた。
「その聖衣は、回復魔法が使えることへのご褒美なのか?」
「……え?」
「教皇様は、エリスがこれまで何をしてきたのかを見て、これからも頑張ってほしいと思ったから贈ってくれたんじゃないのか?」
エリスは顔を上げた。
「力が使えるかどうかだけで決まるなら、調子を崩した時点で聖女じゃなくなってしまう。でも、エリスがこれまで人を助けようとしてきたことも、苦しんでいる人を放っておけなかったことも、なくなったわけじゃないだろ?」
「……はい」
「だったら、今はその聖衣を素直に喜んでいいと思うよ。これからも人を助けたいという気持ちがあるなら、それで十分じゃないかな」
アベルはそう言って、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「それに、聖衣を着たエリスが誰かを助けられなかったとしても、俺はエリスを責めたりしないよ。できることを一緒に考えればいいんだから」
「アベル様……」
エリスの胸が、じんわりと温かくなった。
自分が聖女であることを、力の有無だけで判断しない人がいる。そのことが、今の彼女には何よりも心強かった。
「……ありがとうございます。アベル様にそう言っていただけると、安心します」
「どういたしまして。それで、せっかくの聖衣なんだし、もう少し近くで見てもいいか?」
「えっ?」
エリスは瞬きをした。
「刺繍がすごく細かいからさ。どんな仕組みになっているのか気になって」
「……あ、はい。もちろんです」
少しだけ予想と違う理由だったが、エリスは快く応じた。
アベルは立ち上がり、彼女の衣装を注意深く眺める。胸元の聖印から袖口の装飾、裾に施された細かな刺繍まで、興味深そうに観察していた。
「これはすごいな。魔法陣にも似た模様があるけど、装飾としての意味だけじゃないのかな?」
「詳しいことは聞いていませんが、聖教会に伝わる伝統的な意匠だそうです。魔力を流すと、刺繍の一部が淡く光ることもあるんですよ」
「へえ、それは面白いな」
アベルが興味を示したことで、エリスも自然と説明に熱が入っていく。
聖衣に使われている素材や、教皇から受け取った時の話、聖教会で大切にされている意味など、話したいことが次々と出てきた。
気づけば、最初に感じていた恥ずかしさはすっかり薄れていた。
「……あの、アベル様」
「ん?」
「今日は、見ていただけて本当によかったです。実は、アベル様に一番に見ていただきたかったんです」
言葉にしてから、エリスは少しだけ頬を染めた。
教皇から賜った大切な品だからこそ、尊敬する人に見てもらいたかった。そして、自分のことを支えてくれたアベルに、今の自分を見てほしかったのだ。
アベルは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに微笑んだ。
「そうだったのか。最初に見せてもらえて嬉しいよ」
「……はい!」
エリスは満面の笑みを浮かべた。
その笑顔を見て、アベルもまた、彼女が以前よりも明るくなったことを嬉しく思った。
聖女としての力を失いかけ、自分を責めていた頃のエリスを知っているからこそ、こうして新しい聖衣を身につけ、誇らしげに話してくれることが何よりも喜ばしかった。
「今度、その聖衣を着て誰かを助ける機会があったら、きっとみんなも安心するだろうな」
「そうでしょうか?」
「うん。でも、無理はするなよ。聖衣を着ていても、エリス自身が傷ついていい理由にはならないんだから」
「……ふふっ。分かっています」
エリスは胸元の聖印をそっと撫でた。
教皇から託された期待も、アベルから受け取った励ましも、どちらも大切にしたい。
聖女として人々を支えたいという願いは、今も変わらない。そして、これからは自分自身の心も大切にしながら、少しずつ前へ進んでいこうと思えた。
「アベル様、今日はありがとうございました」
「いや、こちらこそ。素敵な聖衣を見せてもらえてよかったよ」
エリスは最後にもう一度、聖衣の裾を整えた。
そして、少しだけ勇気を出して尋ねる。
「……また今度も、新しい服を着た時には、見ていただいてもいいですか?」
「もちろん。いつでも見せてくれよ」
「約束ですよ?」
「ああ、約束だ」
その返事を聞いたエリスは、心から嬉しそうに微笑んだ。
部屋へ戻る道すがら、彼女は何度も胸元の聖印に触れていた。この聖衣を着て、これからどんな人を助けられるだろう。そして、次にアベルへ見せる時には、どんな話をしよう。そんなことを考えるだけで、足取りは自然と軽くなる。
聖女としての新たな一歩と、好きな人に自分を見てもらえた喜び。その二つを胸に抱きながら、エリスは明日からも頑張ろうと心に誓った。




