閑話74話 リシアの恋愛修行*
夢魔の館。
リシアは、あてがわれた部屋で鏡を見つめていた。
普段なら、身だしなみを整えるために鏡を見ることはあっても、こんなに長い時間、自分の顔を眺めることはない。けれど今日ばかりは、鏡に映る自分の表情がいつもと違って見えるような気がして、なかなか目を離せずにいた。
「……どうしたらいいんでしょう」
小さく呟いて、リシアは頬に手を当てた。
頭に浮かんでいるのは、もちろんアベルのことだった。
アベルは優しい。困っている人がいれば助けようとするし、自分が危険な目に遭っても、仲間を守ることを優先する。リシアが聖女としての力に悩んでいた時も、決して彼女を責めることなく、もう一度前を向けるように支えてくれた。
そんな彼のことを、リシアはいつの間にか特別に思うようになっていた。
最初は、頼りになる仲間だと思っていた。自分にはできないことを簡単にやってしまう、すごい人だとも思っていた。
けれど、アベルと一緒に過ごす時間が増えるにつれ、彼が他の女の子と楽しそうに話していると気になってしまうし、自分に向けられた笑顔を思い出すだけで嬉しくなる。何かあった時には真っ先に彼へ報告したくなるし、彼が自分の活躍を認めてくれた日は、夜になってもなかなか眠れない。
これが恋なのだと、今のリシアには分かっていた。
「……でも、アベル殿は、私のことをどう思っているんでしょう」
鏡の中の自分に尋ねても、答えは返ってこない。
アベルは誰に対しても優しいから、自分に向けられる言葉や気遣いが、特別な意味を持っているのかどうか判断できないのだ。
それに、アベルの周りには魅力的な女の子がたくさんいる。それに比べて、自分はどうだろう。
剣の腕ではアベルに遠く及ばず、魔法も特別に優れているわけではない。もちろん、今は少しずつ前に進んでいる。アベルも、自分の努力を認めてくれている。
それでも、彼の隣にいるのにふさわしい女の子になりたいと思うと、どうしても自信が持てなくなってしまう。
「……ううん」
リシアは首を横に振った。
誰かと比べて落ち込んでいるだけでは、何も変わらない。自分には自分にできることがあるはずだ。
アベルに助けてもらうばかりではなく、自分からも彼を支えたい。そして、仲間として頼られるだけでなく、一人の女の子として意識してもらいたい。
「私も……もう少し、頑張らないと」
そう決意したものの、具体的に何をすればいいのかは分からなかった。戦闘訓練なら、努力する方法は分かっている。苦手な動きを繰り返し練習し、失敗したところを直していけばいい。
けれど、恋愛は違う。
積極的に話しかければいいのか。それとも、もっと女の子らしく振る舞った方がいいのか。アベルのそばにいる時間を増やすべきなのか、あるいは、時には思い切って二人きりになれるよう誘うべきなのか。
考えれば考えるほど、何が正解なのか分からなくなってくる。
「……まずは、話しかけるところからですよね」
リシアは自分に言い聞かせるように頷いた。
いつもアベルから声をかけてもらうのを待っているのではなく、自分から近づいてみよう。何か用事がなくても、話したいと思った時に話しかければいいのだ。
そう決めたリシアは、翌日、さっそく行動に移すことにした。
◇
翌日の朝。
リシアは館の外でアベルを見つけると、いつもより少しだけ早足で近づいた。
「アベル殿、おはようございます!」
「おはよう、リシア。今日も早いな」
「は、はい! ええと……アベル殿と一緒にいたいなと思って」
言ってしまった。リシアは内心で緊張しながら、アベルの反応を窺った。
けれど、彼はいつもと変わらない笑顔で頷いた。
「いいよ。じゃ、まずランニングからだ。」
「はい!」
リシアは嬉しそうに隣に並んだ。いつもなら、フェリもここに加わるのだが、何故か今日は姿がなかった。
「フェリは?」
「今朝は魔弓術の練習を兼ねて森に食材を狩りにいくそうだ。」
「じゃあ、今日は2人きりですね。」
「ああ、そうだな」
2人きり、それだけのことなのに、胸の中が温かくなる。ランニングが終われれば型の確認と打ち込み稽古。いつもより少しだけ近い距離で木剣を打ち合う。ほんの小さな一歩だが、自分にとっては大きな進歩だった。
「そういえば、リシア。昨日の訓練はどうだった?」
「昨日ですか? あの、まだ上手くいかないところもありますけど、少しずつできるようになってきました」
「そっか。無理せず続けるといいよ。リシアは真面目だから、頑張りすぎることもあるしな」
アベルはそう言って、優しく笑った。
リシアは思わず俯きそうになったが、今日はもう一歩頑張ると決めている。
「あの……アベル殿は、私が頑張っているところを見てくれているんですね」
「もちろん。みんなのことは気にかけているつもりだよ」
「……そうですか」
少しだけ、胸がちくりとした。
自分だけではない。
アベルはみんなのことを見てくれている。だからこそ、自分に向けられた気遣いが特別なのかどうか分からないのだ。
けれど、リシアはすぐに気持ちを切り替えた。
今は、それでいい。
アベルが自分を見てくれていることは確かなのだから、そのことを素直に喜ぼう。
「でも……私、もっと頑張りますね」
「うん。応援してるよ」
その言葉を聞いて、リシアは笑顔になった。
まずは、これで十分だ。
◇
午前の訓練が終わった後、リシアは次の目標に挑戦することにした。
アベルを褒める。いつも助けてもらっているのだから、感謝の気持ちは何度伝えてもいいはずだ。そう思って、彼が訓練場の片付けを手伝ってくれているところへ近づいた。
「あの、アベル殿」
「ん? どうした?」
「いつも、ありがとうございます」
「え? 何が?」
「訓練のことも、神がかりのことも……私が悩んでいる時、いつも話を聞いてくれるじゃないですか。アベルさんがいてくれるから、私、もう一度頑張ろうって思えるんです」
今度は、ちゃんと言えた。心の中で何度も考えていた言葉を、自分の声で伝えることができた。アベルは少し驚いたようだったが、やがて穏やかな表情になった。
「そっか。それならよかった。でも、リシアが頑張っているからだよ。俺は少し手伝っているだけだ」
「そんなことありません。アベルさんがいてくれたから、諦めずにいられたんです」
リシアは一生懸命に言葉を続けた。
「だから……私、アベルさんのそういうところが好きです」
言った瞬間、顔が熱くなった。
しまった。……今のは、少し踏み込みすぎたのではないだろうか。
もちろん、人として好きだという意味でも間違ってはいない。けれど、自分の気持ちを意識している今のリシアにとっては、勇気を振り絞った告白に近い言葉だった。アベルはというと、少しだけ目を丸くした後、照れくさそうに笑った。
「ありがとう。そう言ってもらえるのは嬉しいよ」
それだけだった。特別な返事があったわけでも、彼の態度が急に変わったわけでもない。
それでも、リシアは嬉しかった。
自分の気持ちを少しだけ伝えられたのだから。
ただし、彼がどこまで意味を理解してくれたのかは分からない。そこが少しだけもどかしかった。
もっと分かりやすく伝えられたらいいのに。
けれど、いきなり「私のことを恋愛対象として見てください」と言うのは、さすがに難しい。
「……少しずつ、ですね」
「何か言った?」
「い、いえ! 何でもありません!」
慌てて首を振るリシアを見て、アベルは不思議そうに首を傾げた。その仕草まで可愛らしく見えてしまい、リシアはますます顔を赤くした。
◇
昼食の後、リシアは一人で中庭を歩いていた。
午前中は、思ったよりも頑張れたと思う。
自分から隣に座り、一緒に食事をして、感謝の気持ちも伝えられた。これまでの自分なら、どれもアベルから何かきっかけを作ってもらわなければできなかったことだ。
しかし、まだ足りない気がする。
アベルと二人きりで過ごしたい。
もう少し長く話していたい。
できれば、自分のことをもっと知ってほしい。
そして、彼のことも、もっと知りたい。
「……あの」
ちょうど中庭の向こうからアベルが歩いてくるのが見えたので、リシアは思い切って声をかけた。
「アベル殿。今、少し時間はありますか?」
「あるけど、どうした?」
「その……よかったら、一緒に散歩しませんか?」
言えた。今度は、はっきりと誘うことができた。
アベルは少し考えた後、笑顔で頷いた。
「いいよ。ちょうど少し休憩しようと思っていたところだから」
「本当ですか?」
「うん。どこへ行こうか?」
「えっと……お花が咲いているところを見に行きたいです」
「分かった。じゃあ、そっちへ行こう」
二人並んで、中庭の奥へと歩き始めた。
特別な話題があったわけではない。庭に植えられた花のことや、最近の訓練のこと、以前訪れた場所のことなど、何気ない会話が続いていく。
それでも、リシアにとっては十分に幸せな時間だった。いつもなら、アベルが誰かと話している姿を見かけるだけで、少し離れたところから眺めてしまうこともあった。けれど今は、自分から誘って、隣を歩いている。
アベルが何かを話すたび、リシアはその声を聞きながら、もっと一緒にいたいと思った。やがて、花壇の前で足を止めた時、アベルがふとリシアの方を向いた。
「今日はどうしたんだ? いつもより積極的だな」
「えっ……!」
心臓が跳ねた。
気づかれていた。やはり、いつもと違う行動を取っていたからだろうか。変に思われてしまったのではないかと、不安が一気に押し寄せる。
「あ、あの、迷惑でしたか?」
「いや、そんなことはないよ。むしろ嬉しい。リシアとこうして話すのも楽しいからな」
「……本当ですか?」
「本当だよ」
アベルは迷いなく答えた。
リシアは胸に手を当てた。
よかった。
少なくとも、嫌がられてはいない。
「……実は、私」
ここまで来たのだから、もう少しだけ頑張りたい。
リシアは顔を上げて、アベルを見つめた。
「私、もっとアベル殿とお話ししたいんです。何か用事がある時だけじゃなくて、こうやって、何でもない時にも……一緒にいたいなって」
言葉にするのは、やはり恥ずかしかった。
けれど、今度は目を逸らさなかった。
「だから、これからは私からも、もっと誘っていいですか?」
アベルは一瞬だけ驚いたようだったが、すぐに笑顔になった。
「もちろん。遠慮しなくていいよ」
「……ありがとうございます!」
リシアは、思わず満面の笑みを浮かべた。
それから二人は、しばらく花壇の周りを歩きながら話を続けた。帰り道、リシアは心の中で今日の出来事を振り返っていた。
自分から話しかけることができた。
感謝の気持ちを伝えることができた。
二人きりの散歩にも誘えた。
アベルが自分をどう思っているのかは、まだ分からない。彼はいつも通り優しかったし、今日の行動を特別な意味に受け取ってくれたかどうかも分からない。
けれど、以前よりも少しだけ距離が縮まった気がした。そして何より、自分から行動すれば、アベルと一緒に過ごす時間を増やせるのだと分かった。
「……よし」
リシアは小さく頷いた。剣士として成長するために努力するのと同じように、恋する女の子としても頑張ってみよう。
誰かと比べる必要はない。
自分には、自分のやり方があるのだから。
いつかアベルに、自分の気持ちをきちんと伝えられるように。そして、彼にとって自分も特別な存在になれるように。
「明日も……頑張ります!」
そう宣言したリシアの表情は、いつになく晴れやかだった。
ただし、その夜。寝る前になって、今日の自分の言動を一つずつ思い返したリシアは、アベルに「好きです」と言ってしまった場面を思い出して、枕に顔を埋めることになる。
「……あ、あれって、ほとんど告白みたいなものじゃないですか……!」
誰もいない部屋で、リシアの小さな悲鳴が響いた。
それでも、後悔はしていなかった。
明日は今日より、もう一歩。
恋愛に不慣れな剣士の挑戦は、まだ始まったばかりだった。




