340話 母の葛藤*
夢魔の館。
夜が明ける少し前。メアの部屋には、まだ柔らかな魔導灯の明かりが残っていた。
ベッドの上で、メアは疲れて静かに眠っている。先ほどまでアベルはメアに大量の精気を直接渡していた。まだ満足に動けないメアのためにアベルは頑張って"ハッスル!ハッスル!"したのだが、終わったあとメルに、病み上がりにやり過ぎと怒られた。だから、アベルはその傍らに座り、夜通しで何度も彼女の様子を確認していた。
その反対側では、メルがメアの魔力と貯蔵精気を観察している。
「……かなり安定してきたわね」
その声に反応するように、メアの指先が僅かに動いた。
「……ん」
小さな声。メルが顔を上げる。
「メア?」
ゆっくりと瞼が開いた。
まだ焦点の定まらない瞳が天井を映す。
「……ここは」
「夢魔の館よ」
メルが答える。
「そして、あなたの家」
「……家?」
メアは僅かに眉を動かした。
身体を起こそうとするが、腕に力が入らない。
「……っ」
上半身を少し浮かせただけで、身体が力なくベッドへ沈んだ。
「無理しないで」
メルがすぐに肩を支える。
「まだ起き上がれるほど回復していないわ」
「……身体、重い」
「当然よ」
メルは優しく答えた。
「長い間、ほとんど精気を取り込んでいない状態だったんだから……。」
メアはしばらく黙っていた。
そして、小さく呟く。
「……でも……ここにいると、怖くない」
その言葉に、メルの表情が僅かに揺れた。
「そう」
それ以上は何も言わず、メアの髪をそっと撫でる。
「それでいいのよ」
◇
しばらくして、メアが落ち着いた頃、メルがアベルへ視線を向けた。
「アベル」
「どうした?」
「一つ、聞いておきたいことがあるの」
声が僅かに硬かった。
「メイのことよ」
アベルの表情が変わる。ベッドの上のメアも、その名前に反応した。
「……お姉ちゃん?」
メルは静かに頷いた。
「ええ」
「私は、あの子があなたに倒されたことを知っている」
「でも……何があったのかは、まだ知らないわ。話せる範囲でいいから…聞かせてもらえないかしら?」
アベルはしばらく黙っていた。
神杖の塔でのメイとの戦いを思い出す。
「……分かった」
アベルは静かに話し始めた。
「俺がメイと戦ったのは神杖の塔でのことだった。メイは魔王の四天王として、ポチと呼ばれていた別の四天王スライムと共に神杖グングニルを回収しに来ていた。神杖グングニルってのは、聖女専用装備で魔王の多重バリアの一つを攻略できる、ほぼ唯一の武器だから……魔王も躍起になっていたんだと思う。」
メアの瞳が揺れる。
「四天王……神杖グングニル……。」
「ああ」
「メイは、とても強かった。魔法だけじゃなく、その策略に何度も死にそうになった。」
アベルは続ける。
「相手が何を恐れているのか、
何を望んでいるのか、
何を失いたくないのか、
そういうものを利用して、
幻を見せてきた。」
メアは目を閉じた。
「……お姉ちゃんらしい」
メルはその言葉を聞いて、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
メイ……自分の娘。
幼い頃は、誰よりも好奇心が強かった。
館の中を走り回り、他の夢魔たちの真似をして、母親の仕事を手伝おうとして失敗し、それでも笑っていた。
その少女が、魔王の下で「四天王」と呼ばれる存在にまでなり、ヒトの心を壊す力を使っていた。メイにはメイの思惑があったのだろうと思うが、魔王の野望通りにヒト族を滅ぼした先にあるのは、精気の供給源を失ったことによる夢魔族の滅亡。それだけは避けなければならないと考えるメルは、魔王と敵対こそしないまでも適度に距離をとってきたのだ。
アベルの声が続く。
「メイとは最後まで戦った」
メイとポチの共闘、魔法による幻との闘い、それらの話をメルは黙って聞いていた。
「最後は……どうなったの?」
メアが尋ねる。アベルは少しだけ目を伏せる。
「俺が、メイを倒した。ただ、神杖グングニル、メイが魔の力で染めて自分が使えるようにしたそれを、俺は魔杖グングニルと呼んでいたけど、その魔杖を使って塔ごと崩壊させたので、遺体は見つかっていない。使っていた魔杖も見つからなかった。」
メルは目を閉じた。
「……そう」
それだけだった。
だが、胸の奥では、別の言葉が渦巻いていた。
――どうして。
――どうして、あの子は私に相談してくれなかったの。
メイが家を出た日のことを、メルは今でも覚えている。
もっと話を聞いてやればよかった。
もっと強く抱きしめていればよかった。
もっと……母親として、何かできたのではないか。
そう思ってしまう。
けれど同時に。
――あの子自身が選んだのよ。
――私は、何も選ばせていない。
――あの子は自分の意思で魔王のもとへ行った。
どちらも事実だった。
だからこそ、苦しい。
「メル……?」
メアが母親を見る。メルはすぐに微笑んだ。
「大丈夫よ」
「……本当に?」
「ええ」
けれど、その笑顔は少しだけ震えていた。
メアはそれ以上聞かなかった。
◇
アベルはしばらく黙ったあと、静かに言った。
「メル」
「何?」
「俺はメイの仇なわけだが、今、殺されてやる訳にはいかない。」
メルは首を横に振った。
「別に恨んでるんじゃないのよ。ちょっと感情は複雑だけど…。」
「そうか……。」
「ええ」
メルの声も静かだった。
少し間を置く。
「でも……」
メルの視線がメアへ向く。
「私は、あの子の母親なの。どれだけ間違っていても、どれだけ許せないことをしていても、死んだと聞いて、何も感じないわけじゃない。それだけは許してね。」
その言葉は、誰かに向けたものではなかった。
自分自身へ言い聞かせるようだった。
「メイ……。」
メルの瞳から、初めて一筋の涙が落ちた。
メアが母親を見る。
「……お母さん」
メルはすぐに涙を拭った。
「ごめんなさい」
「あなたの前で、こんな顔をするつもりはなかったのに」
「……いいよ」
メアは弱々しく笑った。
「私も……お姉ちゃんには思うところがある。」
メルの手が止まる。
「でも」
メアは天井を見つめた。
「お姉ちゃんが四天王にまでなってくれてたから、私はあそこで無事に生きれたんだと思う。」
「……」
メアの声が僅かに震える。
「ねえ、アベル。お姉ちゃんの遺体は見つかってないって言ってたよね。」
「ああ。王国軍の捜索隊にも見つけられなかった。」
「じゃあ、今度連れてってくれない?ダメ元でも私もお姉ちゃんを探してみたい。ここからなら、そんなに遠くないんでしょ?」
「わかった。回復したら今度、連れていくよ」
「……ありがとう」
メルはメアの手を握った。
「あなたは優しい子ね。」
メアは少し笑った。
「そうかな」
「ええ」
メルも笑った。
◇
アベルは静かに部屋を出ようとした。
だが、メルが呼び止める。
「アベル」
「ん?」
「……ありがとう」
「何が?」
「メアを連れて帰ってきてくれて」
「それと……」
メルは少し迷った。
「メイの最後を、教えてくれて」
アベルは頷く。
「俺にできることなら、何でも言ってくれ。」
「わかったわ。」
アベルは扉へ向かう。
その背中を見ながら、メルは思った。
メイを失った悲しみは、消えない。
怒りも、
後悔も、
母親としての未練も、
きっと、この先も残り続ける。
それでも今は…
帰ってきたもう一人の娘を、守りたい。
それが、今の自分にできることだった。
夢魔の館には、その夜、悲しみだけではない、静かな再生の時間が流れていた。




