336話 次の目的地へ
聖都ヨーセフの大聖堂では、悪夢から回復した聖女たちが、それぞれ帰還の準備を進めていた。
現実では半日にも満たないが、夢の中では長い期間、意識を囚われていた彼女たちにとって、目を覚ました後の世界は、どこか懐かしく感じられるものだった。見慣れた天井も、窓から差し込む朝の光も、隣にいる仲間たちの声も、すべてが現実であると確かめるたびに、胸の奥から安堵が込み上げてくる。
その一方で、自分たちが夢の中で何を見せられ、どれほど苦しんでいたのかも、はっきりと記憶に残っていた。そして、その悪夢から自分たちを救い出したのが勇者アベルだったことも。
◇
大聖堂の正面玄関では、女教皇と聖女達が夢魔の館へ向かう一行の出発を見送るために集合していた。
アベルは眠ったままのメアを背負えるように荷物をまとめ、セレスティアたちは道中に必要な食料や薬品を確認している。メアの状態を見ながら、夢魔の館でどのような治療が可能なのかを調べる予定だ。
「勇者アベル様」
最初に声をかけたのは、聖都で多くの信徒から慕われている美しい長い金髪の聖女だった。
彼女はアベルの前に立つと、両手を胸の前で重ね、深く頭を下げた。
「このたびは、私たちを悪夢から救ってくださり、本当にありがとうございました。意識を取り戻した今なら、自分がどれほど危うい状態にあったのかも分かります。あのまま夢の中に留まり続けていたら、いつか現実へ戻る意思さえ失っていたかもしれません」
「俺だけの力じゃないよ。みんなが自分で戻ろうとしたから、最後には目を覚ませたんだ」
アベルはそう答えたが、聖女は首を横に振った。
「それでも、私たちが戻るきっかけを作ってくださったのはアベル様です。自分たちだけでは、あの幸福な夢から抜け出す方法を見つけられなかったでしょう。どうか、私たちの感謝を受け取ってください」
真剣な眼差しを向けられ、アベルは少し困ったように笑った。
「……分かった。ありがとう」
その返事を聞いた聖女の顔が、ようやく柔らかくなる。
彼女だけではなかった。
次々と集まった聖女たちが、アベルへ感謝を伝えていく。中には目に涙を浮かべながら何度も頭を下げる者もおり、普段は厳格な態度を崩さない聖女でさえ、今は素直な笑顔を見せていた。
「アベル様がいなければ、私たちは今も夢の中にいたのでしょうね」
「目を覚ました時、最初に現実だと感じられたのは、皆さんの声が聞こえたからでした」
「本当に、ありがとうございました。またお会いできる日を楽しみにしています」
その言葉の一つ一つに、アベルは丁寧に応じた。
彼にとっては、目の前で苦しんでいた人々を助けただけのことだった。しかし、助けられた側にとっては、自分たちの心が壊れてしまうかもしれない瀬戸際から、現実へ連れ戻してくれた恩人なのである。
聖女たちの態度には、以前よりも親しみが増していた。単に勇者という称号を敬っているのではなく、一人の人間としてアベルを信頼し、好意を隠さずに接していることが、その表情からも伝わってくる。
そんな様子を少し離れた場所で見ていたクラリスが、そっと心なしか艶っぽい表情のセレスティアへ耳打ちした。
「聖女の皆様、ずいぶんとアベル様に懐いていらっしゃいますわね」
「ええ。命を救っていただいたのですから、当然でしょう。さすがは私の……私たちの勇者様です。」
セレスティアは穏やかに答えたものの、アベルの周囲に人が集まっている光景を見つめる目には、ほんの少しだけ複雑な色が浮かんでいた。
「セレスティア様、なんか今日は艶々してません?」
「えっ!?……き、気のせいですよ。」
動揺を隠しきれないセレスティアの態度にクラリスはいろいろ察した。一夫多妻が当たり前のこの世界でも、実際に何人も妻を娶る男性はそれほど多くない。自分も頑張らないと……その為にはまず主人であるリリア殿下のとの仲を取り持って……などと計算し始めるクラリスだった。
リシアもまた、アベルの近くへ自然に立つ。
「アベル様は、どこへ行っても人を助けてしまうんですね」
「そういうところが、アベル様らしいです」
ミリアが微笑んだ。
彼女たちにとっても、アベルが多くの人から感謝されることは嬉しい。けれど、悪夢の中で何度も彼を失いかけた経験が残っている今は、できることなら、少しでも長く彼のそばにいたいという思いも強くなっていて、無意識のうちに聖女達を牽制していた。
◇
その輪から少し離れた場所では、一人の聖女がエリスを待っていた。
聖騎士としても知られる彼女は、普段から規律を重んじ、言葉遣いも行動も厳格なことで知られていた。聖女としての使命感が強く、他者にも自分と同じ水準を求める傾向があり、以前はエリスに対しても厳しい態度を取っていた。エリスが聖女の力を失ったと知って、彼女の事情を十分に知らないまま、厳しい言葉を投げかけたこともあった。
その聖騎士聖女が、今は落ち着かない様子でエリスの前に立っていた。
「エリス様」
「はい。」
エリスが穏やかに応じると、聖騎士聖女は一瞬だけ視線を落とした。
「……まず、あなたに謝罪しなければなりません」
エリスは少し驚いたように目を瞬かせた。
「謝罪、ですか?」
「はい」
聖騎士聖女は背筋を伸ばし、まっすぐにエリスを見つめた。
「この聖女会議で、あなたが聖女の力を失ったことについて、私は厳しい言葉を投げかけました。あなたがどのような事情を抱えていたのかを確かめようともせず、聖女としての責任を果たしていないと決めつけてしまったのです」
彼女の声は、次第に硬くなっていった。
「今になって思えば、私は何も知らなかったのです。あなたがどれほど苦しんでいたのかも、何を強いられていたのかも、理解しようとしていませんでした」
エリスは何も言わず、静かに耳を傾けていた。
「私は聖騎士として、正しさを重んじているつもりでした。しかし、正しいことを口にしているつもりで、相手の事情を見ようともせずに傷つけていたのなら、それは正義でも何でもありません。今回、実際に操られてみて、あがらうことも出来ずアベル様やリシア様に剣を向けてしまいました。今なら、エリス様のお気持ちが痛いほどよくわかります。」
聖騎士聖女は深く頭を下げた。
「本当に申し訳ありませんでした」
エリスはしばらく彼女を見つめていたが、やがて柔らかく微笑んだ。
「頭を上げてください」
聖騎士聖女が顔を上げる。
「私も、以前は自分の力を失ったことを、神に見放された証拠だと思っていました。だからこそ、あなたの言葉が苦しかったのも事実です」
「……はい」
「でも、今は分かります。力を失ったからといって、私が人を救いたいと思う気持ちまで失われたわけではありませんでした。それに、私が間違ったことをした時には、きちんと指摘してもらうことも必要です」
エリスは責めることなく、静かに続けた。
「ですから、これからは、お互いに相手の事情を知ろうとするところから始めませんか?」
聖騎士聖女は一瞬、言葉を失った。
自分が謝罪を受け入れてもらえるとは思っていなかったのかもしれない。やがて彼女は、今度は先ほどよりも深く、感謝を込めて頭を下げた。
「ありがとうございます、エリス様。今後は、あなたや他の方のことを正しく理解できるよう努めます」
「はい。私も、よろしくお願いします」
二人の間に、ようやく穏やかな空気が戻った。
聖騎士聖女はその後、アベルのもとへも歩み寄った。
「勇者アベル様」
「はい。」
「あなたにも、感謝をお伝えしたいと思っていました」
彼女は一度息を整えた。
「私は、夢の中で自分が何をしていたのか、すべて覚えています。自分の意思ではなかったとはいえ、あなたに刃を向け、あなたを傷つけようとしたことは、今でも恥ずかしく思っています」
アベルは静かに首を横に振った。
「あなたの意思ではなかったんだろう?」
「それでも、私自身の身体が動き、あなたに刃を向けたことに変わりはありません。もしあなたが、私たちを救うために戦うことを諦めていたら、どうなっていたか分かりません」
彼女はまっすぐにアベルを見た。
「それでもあなたは、私たちを敵として扱いませんでした。私たちを倒すのではなく、戻ってこられるように力を尽くしてくださった。そのことを、私は決して忘れません」
アベルは、少し照れくさそうに答えた。
「もう自分を責めすぎないでくれ。今こうして戻ってこられたんだから」
「はい。そうできるよう努力します」
聖騎士聖女は微笑み、最後にもう一度だけ頭を下げた。その表情には、かつての厳格さだけではない、人間らしい温かさが宿っていた。
◇
聖女たちとの挨拶が一段落した頃、エリスはファティマの姿を見つけ、そっと声をかけた。
「ファティマ様。少し、お聞きしたいことがあるんですが」
「何でしょう、聖女エリス。
エリスは周囲を確認してから、声を落とした。
「メアさんに行った治療についてです。」
ファティマは静かに頷いた。
「夢魔、つまり魔族である彼女に、回復魔法を使っても教義的にとか…問題はなかったんでしょうか?」
ファティマは一瞬だけ目を瞬かせた。
エリスは言葉を続ける。
「聖女の回復の力が魔族にも有効であることは経験上わかっていますが、今回、ファティマ様がメアさんの回復のために魔法を使っていただいたことで、何か聖教で問題が起きないか気になっていて…。」
それは、大っぴらには聞きにくい質問だった。エリス自身としては、メアは自分が倒れるぐらい力を使い果たして、自分たちを夢から現実に引き戻してくれたのだから、回復するのは当然だと思っているし、アベルの從魔であるということも理解出来ているため、差別的なことはしたくないと思っている。だが、周囲の目は別だ。
ファティマはその事情を察したように、穏やかに微笑んだ。
「心配はいりません。私は、これまでにも何度も夢魔の方に回復魔法を使ったことがあります」
「……何度も?」
「ええ。何度も、です」
エリスが驚くと、ファティマは少しだけ表情を引き締めた。
「夢魔は、魔族の中でも反魔王派を代表する種族の一つです。彼らは魔王の支配を望まず、エルフ族やヒト族との共存を目指してきました。もちろん、すべての夢魔が同じ考えを持っているわけではないと思いますが、少なくとも、私が知る夢魔の館にいる者たちは、長い間、私たちと協力しあってきたのです」
「そうだったんですか……」
「ですから、私たち聖女にとって、夢魔だからという理由だけで回復魔法を拒むことはありません。私たちの種族に敵意を持たない傷ついている者がいて、助けを求めているなら、まずはその者を救う。それが私たちの務めです」
ファティマは一度言葉を切り、静かに続けた。
「もちろん、魔族の中にはヒト族やエルフ族を害しようとする者もいます。その場合は、相応の対処が必要になるでしょう。しかし、それは種族だけで決めることではありません」
エリスはアベルの背中で眠ったままのメアをみる。彼女は今回の事件では自分たちを救うために力を尽くしてくれた。セレスティアの心を現実へ戻す手助けをし、最後には全員が目覚めるようにしてくれた。その結果、今は意識を失うほど消耗している。
「……ありがとうございます」
エリスは深く頭を下げた。
「それを聞いて、安心しました」
「メア殿は、聖女のためにも大きな力を使ってくださいました。彼女が目を覚ましたら、私からも改めて感謝を伝えたいと思っています」
「はい。きっと喜ぶと思います」
ファティマは微笑んだ。
「それに、これを。夢魔の館の主人宛に私から手紙を出しておきました。夢魔の中には、精神領域の治療を専門にしている者もいます。彼らなら、メア殿の状態について何か分かるかもしれません」
「ありがとうございます…助かります。」
エリスは改めて礼を述べた。それに気がついたアベルも頭を下げる。ファティマは最後に、アベルに静かな声で付け加えた。
「アベル殿。どうか、あなた自身も無理をなさらないでください。誰かを救うために力を尽くすことは尊いことですが、救う側が倒れてしまっては、助けを必要とする者が増えてしまいますから」
アベルは少しだけ苦笑した。
「……気をつけます」
その返事がどこまで本気なのか、ファティマには分からなかった。
◇
「勇者アベル様。どうか、お気をつけて」
「メア様が回復されることを、私たちも祈っています」
「またお会いできる日を楽しみにしております」
アベルは一人一人に頷き、感謝の言葉を受け取った。
「皆さんも、気をつけて帰ってください」
「はい」
聖騎士聖女も最後に歩み寄り、エリスと並んで頭を下げた。
「エリス様。先ほどの謝罪を、どうか忘れないでください。私は、あなたともう一度、聖女として向き合いたいと思っています」
「もちろんです。今度お会いする時は、もっとゆっくりお話ししましょう」
二人は互いに微笑んだ。その光景を見届けてから、アベルたちは聖都を後にした。
先頭を歩くアベルの背には、眠ったままのメアがいる。彼女の呼吸は落ち着いていたが、まだ目を覚ます気配はない。
セレスティアたちは、いつも以上にアベルの近くを歩いていた。悪夢から戻ったばかりの彼女たちにとって、アベルの姿が見えることは、何よりも大きな安心につながっていたのである。
それでも、彼女たちは前へ進む。
今度は自分たちが、救ってもらった恩を返す番だからだ。
目的地は、夢魔の館。
そこでメアを救う手掛かりが見つかることを願いながら、一行は新たな旅路へと踏み出した。




