238話 撤退する魔王軍と小さな約束
砦街外周部。
魔王軍指揮官が倒れた瞬間、戦場の空気が変わった。それまで統率されていた魔王軍の動きが、明らかに鈍る。
「指揮官が倒れたぞ!」
「副官殿に指示を請え!」
魔族兵達の間に動揺が広がる。魔王軍は決して弱い軍ではないが、指揮系統を失った状態で、損害を増やし続ける意味はない。
やがて、魔王軍後方から撤退を知らせる角笛が響いた。
◇
「敵、撤退を開始しました!」
城壁上の兵士が叫ぶ。砦司令官はすぐに判断した。
「追撃はするな。こちらも消耗している。防衛を優先だ。」
兵士達はその命令に従い、伝達を開始する。
勝利はした。だが、誰もが理解していた。
これは終わりではない。魔王軍は撤退しただけで、本当の戦いはまだ続いている。
……それでも、砦街は守られた。
◇
城壁の上。
兵士達の間に安堵の空気が広がる。
「生き残った……。」
「守り切ったんだ。」
短聖剣を鞘へ戻しながらアベルはその様子を静かに見ていた。
身体には疲労が残っている。
勇者の力も、まだ完全ではないのだろう。
しかし、以前とは違った形でも確かに勇者の力は存在する。
一人で全てを背負う必要はない。
ガルド達がいる。
この街の兵士達がいる。
守るということは、自分だけが傷つくことではない。
そのことをアベルは少しだけ理解し始めていた。
◇
戦いが終わった後にアベルは医療区画へ向かった。
理由は一つ、あの少女に会うためだ。
◇
病室の前の扉を開ける。
「お兄さん。」
少女はすぐに気づいた。
「怪我は?」
少女が心配そうに尋ねるが、アベルは笑って答えた。
「大丈夫。少し疲れただけだ。」
少女は安心したように息を吐く。
「勝ったんですか?」
「ああ。」
アベルは頷く。
「この街は守れた。」
◇
少女は窓の外を見る。そこには、戦いの跡が残る街並みがあった。
「怖かったです。」
少女が小さな声で言う。
「音が大きくて。また何か壊れるんじゃないかって。」
アベルは黙って聞いている。
「でも。」
少女は続ける。
「お兄さんがいたから、大丈夫だって思えました。」
アベルは少し困ったように笑った。
「俺は、そんなに頼れる人間じゃないぞ。力も前より弱くなっているし。」
少女は首を振った。
「でも、ちゃんと約束を守ってくれました。」
アベルは目を瞬かせる。
「約束?」
少女は小さく笑う。
「また会いに来るって。」
アベルは思い出す。
眠りから目覚めたばかりの頃に不安そうな少女へ言った言葉。
『必ずまた来る。』
『元気な顔を見に来る。』
その程度の小さな約束。
しかし、少女にとっては、とても大きな意味を持つ約束だった。
「……そうだったな。」
アベルは窓の外を見る。
「じゃあ、もう一つ約束してくれますか?」
「はい?」
「次に会う時は、もっと元気になっていてください。」
アベルは少し驚いた。
「俺が?」
「はい。お兄さんは、いつも誰かを助けています。だから、自分のことも大切にしてください。」
その言葉にアベルは静かに目を伏せた。
「分かった。」
アベルは笑う。
「約束する。」
少女も笑った。
◇
小さな病室。
大きな戦争の中で、二人の間に交わされた約束は、アベルにとって、失われかけた勇者の力を取り戻すための、新しい支えになっていくのだった。




