205話 魔王城の幼姫
乳母のサヤが亡くなってから数日後。
マユミは魔王城の本城へ移り住むことになった。これまで暮らしていた離れとは違い、本城は天井も高く、黒曜石で造られた壁には歴代魔王の肖像画が並んでいる。
初めて見る光景に胸が高鳴ることもなかった。
サヤがいないだけで、世界はこれほど静かなものなのかと、ただそれだけを感じていた。
◇
「今日からこちらがお部屋になります。」
侍女が案内した部屋は、王女に相応しい広さだった。
天蓋付きの寝台。
大きな本棚。
勉強机。
衣装部屋。
子どもが一人で暮らすには広すぎる空間。
「ご不便がありましたら侍女をお呼びください。」
「……ありがとう。」
侍女は一礼すると、それ以上何も言わず部屋を後にした。
扉が閉まる音だけが響く。
広い部屋に、一人。
マユミは小さく膝を抱えた。
「……寂しいな。」
その言葉を聞く者はいなかった。
◇
翌日から教育が始まった。
夜明け前に起床。
礼儀作法。
歴史。
政治。
外交。
軍略。
魔法理論。
午後は語学と筆記。
夕方には舞踏と楽器。
夜はその日の復習。
一日の予定は隙間なく埋められていた。
「姿勢が悪いです。」
「発音をもう一度。」
「王女として相応しい立ち居振る舞いを。」
家庭教師たちは厳しかった。
褒められることはほとんどない。
できて当然。
できなければ叱責される。
それが王女の教育だった。
マユミも必死についていく。サヤが生きていた頃なら、きっと「よく頑張りましたね」と笑ってくれただろう。だが今は、どれだけ努力しても誰も頭を撫でてはくれなかった。
◇
数か月が過ぎた頃。
家庭教師達が報告書をまとめながら呟いた。
「学力は申し分ありません。」
「記憶力も優秀ですな。」
「礼儀作法も及第点。」
別の教師が続ける。
「しかし……戦闘能力発現の兆候が見られません。」
部屋の空気が少しだけ重くなる。魔族の子どもは一定の年齢になると急激な成長を迎える。身体が大きくなり、魔力が飛躍的に増し、それぞれ固有の戦闘能力が芽生える。それこそが魔族として一人前になる証だった。
しかし、マユミにはその兆候がまるでない。
「半魔だからでしょう。」
「前例が少なすぎます。」
「今は経過を見るしかありませんな。」
教師たちは結論だけを記録し、次の議題へ移った。マユミはその言葉を、扉の外で聞いていた。自分ではどうにもできないことを評価されるのは、少しだけ苦しかった。
◇
そんなある日。
廊下を歩いていると、庭から子どもたちの笑い声が聞こえてきた。同年代の魔族たちだった。彼らはすでに十歳ほどの姿へと成長している。角も立派に伸び始め、魔力も安定していた。その中の一人がマユミを見つける。
「あれ、王女様だ。」
全員の視線が集まる。
「まだちっちゃいままなんだ。」
「本当に同い年?」
「赤ちゃんかと思った。」
笑い声が広がる。
マユミは聞こえないふりをして歩こうとした。
だが、一人の少年が道を塞ぐ。
「ねえ王女様。」
「……なに?」
「ちゃんとご飯食べてる?」
周囲から笑いが起きる。
「そのうち赤ちゃん用の椅子が必要なんじゃない?」
「「「ははは!」」」
マユミは唇を噛んだ。
怒ってはいけない。
王女だから。
そう教えられてきた。
「失礼します。」
小さく頭を下げ、その場を離れる。
背中に笑い声がいつまでも追いかけてきた。
◇
その夜。
机に向かって勉強をしていても、文字が頭に入ってこない。
鏡を見る。そこに映る自分は、確かに幼い。
サヤが亡くなってから半年近く経つというのに、見た目はほとんど変わっていなかった。
「……やっぱり変なのかな。」
ぽつりと漏らした言葉に答える者はいない。窓の外では、魔王城の灯りが静かに揺れている。この城には大勢の者が住んでいる。それでも、マユミは誰とも心を通わせることができなかった。唯一、自分をありのままで受け入れてくれたサヤは、もういない。
広すぎる部屋で一人、マユミは本を閉じた。
「明日も……頑張ろう。」
そう呟く声は弱々しかった。けれど、それでも前を向こうとする小さな決意だけは、まだ胸の中に残っていた。




