204話 乳母との別れ
マユミの過去編です。
マユミが物心ついた頃から、いつも傍にいた人がいた。その名をサヤといった。もとは乳母として連れてこられた女性だったが、ヒト族の1歳にあたる成長に約25年を必要とする魔族では、生きている時間が違いすぎる。マユミがやっと乳離れ出来た頃には、彼女は初老とも言える年齢になっていた。
そして、マユミがヒト族で2歳相当になる頃には、白髪混じりの髪を後ろで束ね、少し曲がった腰でゆっくり歩くようになっていた。魔王城では珍しくある程度の裁量と自由な行動が許された人族の女性。周囲の者たちは彼女を「マユミの乳母」と呼んでいたが、マユミにとってはそれ以上の存在だった。
「マユミ様、お勉強の前にお茶にしましょうか。」
「うん!」
小さな机に向かい合い、温かなハーブティーを飲む。そんな何気ない時間が、マユミは大好きだった。
魔王城には立派な部屋も豪華な料理もあった。だが、サヤの淹れてくれる少し薄いお茶の方が、どんな高価な飲み物より美味しく感じられた。
「どうして私は、みんなみたいに大きくならないの?」
ある日、マユミは不安そうに尋ねた。
同じ年頃の魔族の子供たちは、ここ数年で急に背が伸び、声も変わり始めていた。だが、マユミの身体はほとんど変わっていない。鏡に映る自分は、まだ幼い子供のままだった。
サヤは優しく微笑み、マユミの頭を撫でた。
「マユミ様には人族の血も流れています。だから成長がゆっくりなのですよ。」
「でも、みんな変だって言う……。」
「変なんかじゃありません。」
サヤは少しだけ声を強くした。
「ゆっくり大きくなればいいのです。花にも早く咲くものと、時間をかけて咲くものがあるでしょう?」
マユミはその言葉が好きだった。自分だけが遅れているわけではない。そう思えるから。
◇
だが、時間は誰にでも平等に流れる。
さらにマユミが十年を過ごした頃、サヤの身体は目に見えて弱っていた。階段を上るたびに息を切らし、庭へ出る回数も減っていく。マユミは心配して何度も医師を呼んだが、返ってくる答えは同じだった。
「老衰です。」
その言葉の意味を、マユミは最初よく理解できなかった。魔族は長命だ。周囲の大人たちはほとんど歳を取らない。だから「年を取って死ぬ」ということが、マユミには遠い物語のように思えていた。しかし、サヤは日に日に小さくなっていった。
ある冬の夜。
マユミはサヤの寝室で、その手を握っていた。骨ばった手は冷たく、昔のような温もりはほとんど残っていない。
「マユミ様……。」
か細い声が聞こえる。
「ここにいるよ。」
マユミは必死に笑顔を作った。泣けばサヤが心配すると思ったからだ。サヤはゆっくりと目を開け、マユミを見つめた。
「大きく……なられましたね。」
「まだ全然だよ。みんなより小さいし……。」
「いいえ。」
サヤは首を横に振った。
「心が……大きくなられました。」
その言葉に、マユミの胸が締め付けられる。
「お願いだから、そんなこと言わないで……。」
サヤは弱々しく微笑んだ。
「強く……優しい子に……なってください。」
それが最後の言葉だった。握っていた手から、ふっと力が抜ける。
「……サヤ?」
返事はない。
「ねえ、起きて……。」
何度呼んでも、サヤは目を開けなかった。マユミは初めて、人が死ぬということを知った。胸の奥が空っぽになる感覚。どれだけ呼んでも戻ってこない現実。
涙が止まらなかった。
◇
サヤの葬儀は静かに行われた。マユミと数人のヒト族の使用人だけが参列し、使用人は直ぐに仕事に戻らねばならなかった。最初から最後までいたのはマユミだけだ。
雪の降る庭で、小さな墓石の前に座り込む。
「私、強く優しくなれるかな……。」
答えてくれる人はもういない。
風が吹き、白い雪が肩に積もる。
その時、魔族の侍女が静かに近づいてきた。
「マユミ様。」
「……なに?」
「魔王様よりお達しです。今後は本城に移り住み、王女として教育を受けていただきます。」
王女。
その言葉はどこか他人事のように聞こえた。
マユミは墓石を見つめたまま、小さく頷く。
「……わかりました。」
立ち上がると、雪の上に小さな足跡が残った。
振り返ると、サヤの墓が白く霞んで見える。
「行ってきます。」
誰にも届かない挨拶を残し、マユミは魔王城の本丸へ向かって歩き出した。
それが、彼女の孤独な日々の始まりだった。




