198話 引き裂かれた母娘
イヤマ王国が滅びてから、季節が巡った。魔王とその側近達は既に魔界に戻り、年に数回不定期にやってきて顔を合わせる程度になっていた。
王城の奥深く。外界と隔絶された一室で、ミユキは静かに窓の外を見つめていた。そこはもう地下牢ではない。だが自由があるわけではない。部屋の外には常に見張りが立ち、魔力封印の結界が張られている。それでも一つだけ、以前とは違うことがあった。ミユキは新たな命を宿していた。
◇
腹部へそっと手を添える。その小さな鼓動だけが、今の彼女に残された唯一の温もりだった。
(この子は……。)
カズマと自分の子だと信じていた。あの日、あの時、牢から抜けだしたカズマが私のもとに現れて奇跡のような時間を過ごしたのだと。だから、ミユキはカズマと自分の名からお腹の子が男の子であれば"カズキ"、女の子であれば"マユミ"にすると決めていた。
(せめて……この子だけでも幸せに…)
そう願わずにはいられなかった。
◇
数か月後。
静かな産声が部屋へ響いた。
女の子だった。
小さな手。
小さな足。
外見はヒト族と変わらない。だが、内在する莫大な魔力量とヒト族が持ち得ないはずの妖力、それが半魔、すなわち魔王と人間、その両方の血を受け継いだ証だった。
助産を担当したヒト族の女性が、優しく赤子を抱き上げる。
「元気な女の子ですよ。」
その言葉に、ミユキの頬を涙が伝う。
ゆっくりと腕を伸ばす。
あと少し。
あと少しで抱ける。
その瞬間だった。
◇
「産まれたか。」
魔王の低い声が部屋へ響く。部屋へ入るなり、赤子を一瞥する。
「連れて行け。」
興味深そうに呟く。そして、それ以上の感慨もなく命じた。
「待って!」
ミユキは思わず身体を起こした。出産直後の身体が悲鳴を上げる。それでも必死に手を伸ばす。
「お願いです……マユミを一度だけ、一度だけでも抱かせてください……!」
魔王は振り返りもしない。
「必要ない。その子は別棟で育てる。乳母は別に用意してある。」
冷たく言い放った。
魔族の女性兵士が赤子を助産師から奪いとるように抱き上げた。
「嫌……!」
ミユキの叫びが響く。
「返して!お願い!その子は私とカズマの子…」
「あれは我とお前の子だ、ミユキ。」
「嘘よ!貴方に抱かれた覚えなんてない!」
「あんなに激しく愛し合ったのに覚えていないのか?」
魔王はさっさと連れていけと合図をして赤子を抱いた魔族兵士の退室を促した。
扉が閉まる。
泣き声だけが遠ざかっていく。
◇
その日、
母と娘は引き裂かれた。
そして、二人が親子として顔を合わせることは、ただの一度もなかった。
◇
赤子は別棟へ運ばれる。そこで待っていたのは、乳母として確保されていた一人の人間の女性捕虜だった。
「かわいそうに……。」
女性は赤子を胸へ抱き寄せる。
「大丈夫。あなたは一人じゃない。」
その日から彼女は、実の母の代わりに少女を育てることになった。
「マユミ」と名付けられたその赤子は、その後波乱の人生を歩むことになる。
◇
一方、ミユキは再び一人になった。
部屋の中には静寂だけが残る。
胸へ抱くはずだった温もりは、もうどこにもない。娘に着せるつもりで用意していた小さな衣だけが残されていた。それを抱き締めながら、ミユキは声を殺して泣いた。
「マユミ、ごめんなさい……守れなくて、ごめんなさい。」
誰にも届かない謝罪だった。
◇
乳母は知らない。実母が、娘を抱くことすら許されなかったことを。
マユミも知らない。母が自分を捨てたのではなく、会うことすら許されなかったことを。
そしてミユキも知らない。娘が成長し、「母は最初から私を望まなかった」と信じながら生きていくことを。
その小さなすれ違いは、百年以上の歳月を越えてもなお、埋まることはなかった。




