193話 東の果ての島国*
四百年前――。
世界の東端。大海に囲まれた島国、イヤマ王国。四季は豊かで、稲穂は風に揺れ、人々は慎ましくも穏やかな暮らしを営んでいた。
大国ではなく領土も広くはない。しかし、東方交易の要衝として栄え、独自の文化と高い魔導技術を持つ国として知られていた。特に、刀と呼ばれる片刃の剣を使うことに特化した独特の剣術は他国にも名高く、多くの武人がその技を学ぶため海を渡ってきた。
王都では今日も市場が賑わい、子どもたちが笑いながら走り回る。誰もが、その平穏が永遠に続くものだと信じていた。
◇
王城。
謁見の間では、一人の女性が家臣たちの報告へ耳を傾けていた。
長く美しい黒髪。
凛とした立ち姿。
年齢は二十代半ばほど。
華美な装飾は好まず、それでいて誰もが目を奪われる気品を纏っている。
イヤマ王国女王、その名をミユキと言った。
「北部の収穫は例年通りでございます。」
「南方交易も順調です。」
「民の生活も安定しております。」
家臣たちの報告へ、ミユキは静かに頷く。
「それは良いの。」
柔らかな声音。
決して威圧的ではない。
それでも、その場にいる誰もが彼女を王として敬っていた。
「民が安心して暮らせること。それ以上に大切なことはありません。引き続き、各地の様子を見守ってください。」
「「「「「はっ!」」」」」
家臣たちが一斉に頭を下げる。
◇
謁見が終わると、一人の青年が執務室を訪れた。
「ミユキ。」
女王ではなく、名で呼ぶことを許された数少ない人物。
幼い頃から彼女を支え続けてきた近衛隊長のカズマだった。カズマの容姿は、この国には珍しく銀髪青眼である。これは両親が遥か西方のアルセリア王国の出身であることに由来する。アルセリアは鍛治が盛んな国だが、彼らはイヤマ王国製の刀に惚れ込んで移民としてやってきたのだった。
「今日も休憩を取っていないだろう。また倒れるぞ。」
呆れたような口調だった。
ミユキは困ったように微笑む。
「まだ仕事が残っていますから。」
「またそれか。」
カズマは小さくため息を吐き、机へ湯飲みを置いた。
「せめて、お茶ぐらい飲め。」
「ありがとうございます。」
ミユキは嬉しそうに湯飲みを手に取る。二人のやり取りを見ていた侍女たちは、思わず顔を見合わせて微笑んだ。
誰の目にも分かる。二人は互いを深く想い合っていた。
だが、女王と臣下。その立場がある以上、誰もその想いを口にすることはなかった。
◇
新年の儀。
女王は神事として祭壇の前で舞を奉納していた。手には扇を持ち、しなやかかつ繊細な動きで見ている全ての者を魅了する。
奉納が終わった後、ミユキは寒いにも関わらず大粒の汗を浮かべていた。カズマは手拭いを渡しながら、彼女の素晴らしい舞で、きっと今年もよい1年になるだろうと確信していた。
◇
ある春の日の夕暮れ。
王城の長廊下を二人は並んで庭園を眺めていた。
「今年も桜が綺麗ですね。」
「ああ。」
ミユキが呟き、カズマも頷く。
「この景色だけは、いつまでも変わらないでほしい。」
その言葉に、ミユキは静かに笑った。
「ええ。この国も、この人たちも、ずっと守っていきたいですね。」
その横顔には、女王としての決意と、一人の女性としての穏やかな願いが同居していた。
◇
しかし、その頃。
遥か西方では、黒き軍勢が静かに動き始めていた。それは魔界と呼ばれる大陸中央のヒト族にとっての禁足地、魔族と魔物が跋扈する修羅の土地。その地の王である魔王が組織した史上最大規模の侵攻軍。ヒト族は畏怖をもってその軍勢を魔王軍と呼んだ。豊かな島国であるイヤマ王国を目指して、この魔王軍が動き始めたことを、そこ国のヒト族はまだ誰も知らない。
この穏やかな日々が、あとわずかで終わりを迎えることを。その終焉が、一人の女王の運命だけでなく、四百年後の世界にまで深い影を落とすことになる――。




